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Thessalonians

1テサロニケ2:10~20

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:11‭-‬12 新共同訳

パウロとテサロニケ教会は親子の関係のようだった。指導者としてパウロは「こうだ」と示すときもあれば、「一人一人にい呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めた」。人はそれぞれ霊的成長の過程が違っていて、それぞれに合った接し方や言葉がある。自信がない人は励まし、進んでいる方向が正しいことを肯定すること。失敗をしてしまった人は慰め、イエスの赦しを示す。なかなか前に進まない、現状に満足している人には強く勧める。これをする目的は神の「国と栄光にあずかる」こと。つまり、福音を広めることによって神の国が広まることに貢献し、神の栄光を称える人生を送ること。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 テサロニケの信徒への手紙一 2:13‭, ‬19 新共同訳

「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」 パウロが語った言葉は神の言葉だったのか?パウロは新約聖書の大半を書いていて、その書かれた言葉は間違いなく神の言葉である。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

テモテへの手紙第二 3章 16〜17節

考えられることとして、パウロが語った言葉は神の言葉である旧約聖書を引用していた。また、パウロはキリストと直接会った使徒として、イエスの言葉を直接語ることもできた。そういう意味では、パウロは神の言葉を語っていた。それを証拠に、「信じている(テサロニケの人々)の中に現に働いている」。言葉が聖霊を通して人々の中に働き、キリストにある成長へとつながっていた。

では、説教は神の言葉なのか?上記の考え方でいくと、説教が聖書を語っている限り神の言葉であることは間違いない。しかし、聖書から脱線した話や、その聖書箇所と無関係な私的解釈は神の言葉とは言えない。ましてや、思い出話で体験を語ることも、人の心を動かすことはできるかもしれないが、神の言葉と宣言することはできない。説教者にとって神の言葉である聖書を忠実に語ることが求められている。

ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:15‭-‬16 新共同訳

「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。」福音を妨げる人や、宣教活動をサポートせず批判しかしない人は、「自分たちの罪をあふれんばかりに増やしている。神の怒りは余すところなく彼らの上に臨む」。それだけ神は宣教に重きを置いていて、それを妨害する人に怒りを向ける。教会内の行事に重きを置きすぎて宣教活動を批判・妨害をしていないだろうか?罪を増やしていないか?神の怒りを買っていないだろうか?

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