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Thessalonians

1テサロニケ2:1~9

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:4 新共同訳

「人に喜ばれるためではなく」福音に忠実でいるために、神に認められるために、人に喜ばれる福音の伝え方をしてはならないのか?教会でバザー、キャンプ、イベントなどを通して福音を伝えるのは相応しくないのか?

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 テサロニケの信徒への手紙一 2:5‭-‬6 新共同訳

「相手にいへつらったり、口実をもうけてかすめ取ったり」ここで言っている人を喜ばせる動機は、自分の利益。自分が注目を浴びて、自分自身が満足すること。教会に多くの献金が集まり、財政が潤うこと。後者については、潤った財政をどう使っていくかによって善悪が問われるが、一旦は置いておこう。イベントをすることによって人ではなくイエス・キリストに焦点が当たっているか?バザーをすることによって財布ではなく魂が潤うようになるのか?これが問われている。

ちなみに、イベントをしなくても自分自身に焦点を当てている場面もある。自分たちが築き上げた文化や伝統を固く守ることも、聖書ではなく自分自身を満足させている。教会財政が潤っているのを良いことに新しい会堂を建てようと必死になり、本当に財政を必要としている人や宣教師や他教会が見えなくなる。ここまでくると、「汚れのない宗教」について聖書から学び直す必要がある。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

ヤコブの手紙 1章 27節
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:7‭-‬8 新共同訳

「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたい」福音を伝えることだけなら説教でもできいる。しかし命(psychas)を与える、もしくは人生や生活を分かち合う(metadounai) ことは、説教だと一方通行のメッセージなため、分かち合うことは不可能。本当に福音を分かち合うには礼拝以外、説教以外の場で「命を分かち合う」必要がある。そうすることによって初めて、単なる一方通行の人が語る言葉から、神に命を吹き込まれた福音のメッセージに変わる。

バザーやキャンプやイベントを通して福音を伝えるのは相応しいか?この聖書箇所を見る限り、相応しいだけでなく、分かち合いのためには不可欠。イベントをすることによって焦点がキリストに当たり、分かち合いの中で生きた福音を伝えていくことがポイントになる。生きた福音によって、イエスと聖霊によって変えられた人が、やがて礼拝と教会につながっていく。

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