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Colossians

コロサイ1:15~29

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

'御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 ' コロサイの信徒への手紙 1:15-17

神の姿は誰も見ることができない。神の顔を見た人は死ぬと言われてきた (出エジプト33:20)。イエス・キリストは「しもべの姿をとり、人間と同じ様になられました。人としての姿をもってあらわれ」た (ピリピ2:7)。だからこそイエスは私達の弱さに同情できる (ヘブル4:15)。イエスは、人間が神になった者ではないし、神によって創られたのではない。イエスは「神の姿」であって、神である。父と聖霊とは違う役割を担い、父と聖霊と世の始まりから存在している。

イエスはこの世の全てのものを造り、全てを支配している。そして全てを支えている。巻時計のようにこの世を創って、放っておいているのではない。この世がどんなに悲惨な状況でも、イエスは全てを支えている。イエスの許しなしに起きることはないし、イエスはどんな状況も変える力と権威がある。

造られたものは全てイエスのために存在する。自然が、私達が創られた理由は、イエスのために生きるため。グランドキャニオンやナイアガラの滝のような大自然を体験すると、まさに石ころが神を讃えていることが理解できる(ルカ19:40)。私達も自然に負けず、日曜日のみならず人生全てを通して神を讃えていきたい。

'また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:18-20

イエスは教会=「呼び出されたキリスト者」の頭。イエスが死から蘇ったように、教会も死に向かうだけの罪の中から呼び出され(ローマ6:23)、イエスのために生きるようにされた。神がこの世を見ると罪の影響しか見ることが出来ないが、イエスの内にある教会は聖なる者とされている(ヘブル10:10)。聖なる神と顔をあわせることも出来ない私達だったが、イエスによって神と胸を張って対面することができ、「アバ、父」と呼ぶことができる(ヘブル4:16, ローマ8:15)。神父に罪を打ち明ける必要もなければ、礼拝の場で懺悔する必要もない。私達はすでに赦されている。

'ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:23

本当に救いを味わった者は信仰に踏みとどまる。自分の罪をよく理解し、罪に対してどうしようもない状態を実感する。その罪の報酬は死であることをしっかり認識し、神の義を受け入れる。それに対してイエスが十字架で死に、私達の罪の代価を支払ってくださった愛を知る。その事実を受け入れて、蘇ったイエスのために生涯を捧げる。この一連の考えとイエスへのコミットメントをした人が、信仰から迷いでることはないはず。もしそうであれば、罪の意識、イエスの愛、救いの事実、イエスに仕える意思、のどれかが欠如している。(Perseverance of the Saints =「聖徒の永遠堅持」)

最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば・・・私たちはキリストにあずかる者となる

ヘブル3:14
'このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。' コロサイの信徒への手紙 1:28-29

全てを治めていながら全てを支えている。人の姿をとり、私達を理解してくださっている。私達のために救いをもたらしてくださった。この素晴らしいキリストを宣べ伝えたくならないだろうか?礼拝という限られた場所だけにとどめても良いのだろうか?「知恵を尽くしてすべての人を論じ、教えていく」ことが必要。教会内での奉仕に疲れることがあるが、「労苦」すべきことはキリストを宣べ伝えるとき。それも「キリストの力によって戦う」ことができる。

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