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Ephesians

エペソ5:1~21

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。

みだらな行い (porneia, 1コリント7:2, 6:18, マタイ15:19)、身を汚す行為 (エペソが陥っていた性的状況, ローマ1:24, 26-27)、貪欲 (ヘブル13:5, 1テモテ6:8)。これらは「偶像礼拝」とされている。何故なら、これらの行いは自分に目を向けている。自分の欲を満たす性的行い (ポルノ)、自分が正しいと思った性の形 (「自然に反するもの」)、自分が望むものを追い求める。自分に目を向けた状態というのは、神を王座から引きずり下ろしているのと同じこと。神の主権、神の意思を無視して生きることが偶像礼拝。このような生き方をする人たちに「神の怒り」が下る。

11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 13 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。 死者の中から立ち上がれ。 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

キリスト者として、これらの「業に加わらない」のと「明るみに」する役割がある。ただし、目的を忘れてはならない。それは「明らかにされるものはみな、光となる」こと。世の中と距離をおいて、全く関わらないことは難しいことではない。しかし、それではキリストの光を当てることはできない。間違っていることを指摘することは簡単。しかし、それでは相手が「光となる」目的を達成することはできない。むしろ、つまづきを与えてしまい、キリスト者が罪を犯すことになる(ローマ14:12-13)。地の塩、世の光として生きることがキリスト者の役割。

15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

「賢い者」として生きるのは、細かく気を配り、時をよく用いること。これは11節の明らかにして光とすることからつながっている。生活の中で、職場で、隣人との付き合いの中で、どのような「時」があるだろうか?どのような話が出たらキリストを伝えられるか?どのような状況にあったらキリスト者としての生き方を証できるか?誰に対してキリストの愛を示すことができるか?「細かく気を配り、時をよく用いる」のはキリストの味をいかなる場面で出すことによって「賢い者として生きる」こと。

18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

酒で満たされ、酒の力を借りて本音で話すことは楽かもしれない。しかし、聖霊で満たされることが求められているし、聖霊で満たされるのは酒よりも多くの利点がある。聖霊で満たされることによって神に向かうことができる。神に向いたままお互いを見ることができ、人間として欠けている部分は見ないようになれる。人に対する言葉でなく、神に対する「詩篇と賛美と霊的な歌」を用いて互いと会話することができ、キリストに仕えるように互いに仕える事ができる。

ちなみに、「詩篇と賛美と霊的な歌」は「賛美歌」や「聖歌」だけに限らない。聖書にある詩篇はもちろん、聖霊に動かされて語る「霊的な歌」も神への賛美にふさわしい。

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