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ピレモンと宣教師

ピレモンへの手紙では、パウロの働きにピレモンへ参画するように促した。このことから教会生活への参画の必要性や、宣教師の教会での振る舞いなどが読み取れるのだろうか?そもそも、宣教師としての振る舞いはどうあるべきか?神に遣わされる宣教師と霊的賜物は、どのような関係があるのか?宣教師を受け入れる教会はどのような姿勢をとるべきか?このようなことを考えてみた。

ピレモンと宣教師

17ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。18もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。19私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。20そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。
ピレモン17〜20

パウロはピレモンのことを「仲間の者」と呼んだ。ピレモンはパウロの働きに参画する仲間だから、オネシモを奴隷から開放してほしいと依頼されている。前回も書いたが、パウロを受け入れるかのように、イエスを受け入れるかのように、ピレモンはもてなす気持ちでオネシモを迎え「愛する兄弟」(16節)として受け入れて欲しいという願いが込められている。

しかし、この箇所はパウロがピレモンに送った手紙であり、個人的な内容で個人的な依頼である。ある特定の教会や普遍的教会(又は教団)への指示は書かれていない。もちろん、聖書に含まれているということはクリスチャン生活で適用できる内容が含まれているのは確かだが、教会のありかたや、教会生活への参画の必要性は言及されていない。

また指示の方向として、パウロが宣教師と使徒の立場として、信徒であるピレモンに向けらた依頼として書かれている。宣教師の話しをするのであれば、むしろ宣教師パウロの指示をしっかりと読み取る方が自然である。「私を迎えるようにオネシモを迎えてください」「損害を与えたら請求を私にしてください」「あなた自身のことで私にもっと負債があること(を忘れずに)」「キリストにあって安心させてください」。考えるトピックとして、パウロの視点から宣教師としての振る舞いが一つ。もう一つは、ピレモンの視点からキリスト者としてどのような姿勢で指示を受け入れるべきか、を考えることができる。

宣教師としての振る舞い

まず考えたいのが宣教師としての振る舞い。パウロは使徒であり宣教師でもあることから、彼がどのように諸教会と接したかを見ることによって宣教師としての振る舞いを見出すことができるはず。

19私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。20ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。21律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。22弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。23私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。
1コリント9:19〜23

パウロは福音がより多くの人に理解され受け入れられるために、「すべての人の奴隷になりました。」福音を聞く人の立場に立って、どのように伝えれば理解できるか、どのような生き方をすれば受け入れてもらえるか、をよく考えて行動していた。相手の文化に入っていき、その土台の上に福音とキリスト者としての生き方を立てあげていった。ユダヤ人に対しては律法を理解する者としてのアプローチ。律法を持たない者(異邦人)に対しては福音における自由からのアプローチ。弱い人たち(罪に苦しんでいる人たち)に対しては彼らのいる場所へ出向いてのアプローチ。

このように、福音を伝える人に合わせてアプローチをすることによって、パウロは「なんとかして、何人かでも救う」ことを心がけた。宣教師としての振る舞いはこうあるべきだが、キリスト者一人ひとりもまた宣教師である。大宣教命令はキリスト者全員に課せられた任務なので、パウロのようにキリスト者一人ひとりも福音を伝える相手が分かりやすいように工夫することを心がけたい。

1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。2私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
1コリント3:1〜3

パウロはまた、教会に足りない部分について指摘をした。コリント教会は幼子のように乳を飲むことしかできず、固い食物を食べる体制ではなかった。それは、コリント教会の中でパウロに仕える者とアポロに仕える者とで争っていて、キリストに仕え、キリストは神に仕えていることを理解できていなかったからである。(21〜23節) キリスト者は人(牧師や役員、またその教会の組織)に仕えているのではない。キリストに仕えている。この基本的事実を理解しないと「御霊に属する」話しをすることができない。

1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。2これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
ガラテヤ3:1〜3

パウロは、ガラテヤ教会に対しても同じ様に振る舞っている。ガラテヤ教会はかつて受け入れた恵みによる福音を忘れてしまい、イエスを受け入れたあとに割礼を受る必要があると主張していた。「御霊によって始まった」信仰生活だったが、「肉によって完成される」ことに勘違いしていた。キリストは私達を律法から自由にしてくださり、信仰によって霊に生きる人達として下さった(3:14)。なので、常に規律を作って守ることに必死になるよりも、霊に喜んで生きることをパウロはガラテヤ教会に勧めていた。

このように、パウロは使徒及び宣教師として、キリストを頭とした教会がどのように建てられるべきか、またどのような方向に進むべきかを指摘した。この指摘事項を各教会は受け入れ、改善をすることによってさらに発展していった。ただし、宣教師として指摘する際に大切な心構えも示されている。

24私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。
2コリント1:24

パウロが諸教会に対して指摘を行ったのは、諸教会が喜びに満ち溢れ、信仰によって自立するためだった。この喜びは、教理のみを学んで分かったつもりになる事ではなく、礼拝を毎週行っているからそれで十分だと満足しきることでもない。キリストという目標に向かって走り続けることができる喜びである。(ピリピ3:14)キリストの教えによって互いに励まし合い、高め合うことによって、結果として神を賛美する喜びでもある。(コロサイ3:16)この喜びを分かち合って成長することによって、信仰において自立していけるようになる。宣教師、牧師、役員が教会を支配し、信仰の行く末を全てコントロールするのではなく、キリスト者一人ひとりが聖書から学び、互いを教え合う体制を作っていくことが、宣教師パウロの願いであり、霊的リーダーの誰もが取り組むべき課題である。

霊的賜物

4さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。5奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。6働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。7皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。8ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。9ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。11同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
1コリント12:4〜11

教会は一つの体ではあるが、体の部分が多くあって、どれも違う役割を担っている。キリスト者一人ひとりに与えられた霊的賜物があり、その賜物を活かす事によって体の益となる。この事実を無視して教会形成がされると、教える賜物(ローマ12:7) が無い人が教師になったり、管理の賜物(12:28) がない人が執事になったり、リーダーシップの賜物(ローマ12:8)が無い人が教会のリーダーになってしまう。逆に、霊的賜物をしっかりと認識できると、教会員一人ひとりが生き生きと教会生活を送ることができ、それぞれの長所を育てるようなリーダーシップを取ることができる。

このような環境から送り出された宣教師は、当然のことながら自分の霊的賜物を認識した上で奉仕する。神に遣わされているので、賜物を存分に使いたいのは当たり前である。また、長所を極めながら成長してきているので、それ以外の賜物では無理をせず他人に任せることができる。すべてを一人で請け負って奉仕に疲れるより、他人に頼りながら奉仕するのは健全ではあるし、教会の支え合う形と一致する。

宣教師が一つの教会に留まらず次の教会に移っていく理由として、霊的賜物(長所)がその教会で活かせなくなったから移る、ということが上げられることがある。そもそも、宣教師が一つの教会に留まることは普通ではない。宣教師は根本的に一つの教会に仕える牧師と役割自体が違うので、同じ動きを求めるのは聖書の定義から逸脱している。

12私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、13私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。
2コリント2:12〜13

パウロもトロアスに行って福音を伝え、心に安らぎがなくなったらマケドニアに移った。それぞれの場所で福音を伝え、それぞれの教会で励ましと指摘を行った。宣教師は遣わされた場所で精一杯賜物を発揮し、手を入れられる所に手を入れる。そしてまた神の導きによって次の場所へと移っていく。この関わり方によって一つの教会だけでなく、普遍的な教会の成長に貢献し、神の御国を広めていくことになる。

受け入れる側の姿勢

宣教師の役割や立場が違うことを理解すること。霊的賜物を活かせる場所を整えること。このような受け入れ体制がパートナーに必要なのではないか。プライドが高い信徒や牧師から見れば、宣教師に教えられることは何もないと思うかも知れない。何十年も牧会していて、教会員も同じ期間で積み上げてきたものがある。それを守りたいという強い思いはあるだろう。しかし、宣教師のみならず、新たな教会員は違う視点をもっているので、その考えをすぐに否定せずしっかりと受け止める姿勢が必要である。共に生きる「仲間」だと言うのであれば、これまでの形を肯定する人と同じぐらい、否定する人の意見をも理解することに務めるべきである。

6あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。7その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。8主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。9人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、10御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。
1テサロニケ1:6〜10

テサロニケはパウロの手紙の中で最も称賛を受けた教会だろう。「マケドニアとアカイヤにいるすべての信者の模範になった」し、「神に対する・・・信仰が、あらゆる場所に伝わっています。」この教会は初代教会の中で最も成長していた教会で、他の教会、他の信者もテサロニケ教会から学んでいた。なぜなら、テサロニケ教会は「喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」劣等感にとらわれず、宣教師であるパウロの言葉を素直に受け入れることができた。何十年も昔から一緒に歩んで来た分けではないが、助言を拒むことはしなかった。神に与えられた賜物を、召しによって忠実に発揮していた宣教師パウロを、本当のパートナー・仲間として受け入れていた。パウロはこの受け入れ体制に応答し、「福音だけでなく、自分自身のいのちまで、喜んで・・・与えたいと思って」いた(2:8)。そこまでパウロはテサロニケの教会との繋がりを感じたのだろう。

教会と共に生きることができるのは、新たに参画する側の振る舞いはもちろん、その受け入れ体制も見直す必要がありそうだ。

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