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テトスへの手紙の趣旨、教会と宣教、みことばを語れる人

テトス書は個人に宛てた手紙なので、宣教は教会全体へ委ねられたのではなく、個人に委ねられたのか?みことばは牧師として召されないと語れないのか?こんなことを考えてみた。

テトスへの手紙の趣旨

テトスは確かに個人に宛てられた手紙だが、手紙を書いた理由はテモテに宣教することを促すためでなく、テトスに教会形成を教えるために書かれた。テトスの全体像を見ると、以下のようか項目に分けられる。

  • 1:1〜6  教会のリーダーについて
  • 2:1〜15 教会内での正しい生き方について
  • 3:1〜15 世の中での正しい生き方について

まず個人に宛てられた手紙についてだが、聖書ににあるどの手紙も特定の個人や団体に向けて書かれている。これによって適用範囲が限られていると思う人もいるが、神のみことばである聖書はそのように制限されない。誰が読んでも聖書は心に響き、変革を起こすことができる(ヘブル4:12)。また、ただ発信される空しいものではなく、必ず結果をもたらす(イザヤ55:11)。なので、テモテ個人に向けられた手紙だったかも知れないが、神のみことばには変わりはないので、読む人にとって必ず益となるし、適用範囲も個人に留まらずキリスト者全員に及ぶ。

さらにテモテ書は個人に宛てられた手紙にも関わらず、書かれている内容がテモテ個人に対しての事柄ではない。まず手紙を書いているパウロはテモテに対し、クレタ全体の各教会にて長老を立てるように指示している(1:5)。またこの長老がどのような人柄であるべきか記している。適用範囲はテモテ個人ではなく、教会形成や教会のリーダーに当てはまることであって、明らかに現代に直結する事柄である。次に、教会生活において年長の人(2:1〜5)、若者(2:6〜8)、奴隷(2:9〜10)それぞれに対して生き方を記している。テモテ個人にではなく、教会員に語っている。最後に、キリスト者の世の中においての生き方を記しており、特に「支配者や権威者に服し、これに従い、すげての善い業を行う用意がなければならないこと、また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないこと」を促している(3:1〜2)。まさにキリスト者なら誰でも適用できる言葉である。

教会と宣教の関係

さて、テトスは宣教について書いていないことが確認できたが、宣教と教会の関係はどこに記されているのだろう?まずは誰でも知っている大宣教命令が良い出発点だ。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

マタイ28:19〜20

明らかに、すべてのキリスト者に対して宣教するよう命令しているし、弟子づくりや洗礼を含んでいることから教会の働きだということがはっきりしている。宣教は個人が行うことだというなら、大宣教命令に弟子づくりや洗礼が含まれていることに説明がつない(この2つが教会の働きでないというなら話は違うが)。

あなたがたは、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

マタイ25:40

教会も世の中の貧しい人に施しを与え、貧しい人に仕えることを通して、イエスの愛を見える形で示す義務がある。こうすることによって教会は「汚れのない宗教」を行うことができる(ヤコブ1:27)。

同時に、教会は子どもたちに宣教する必要がある。イエスは、「こどもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちの者です」(マルコ18:16)と教えていて、子どもたちを通して神の国を形成するよう教会に教えている。

宣教は日曜日の礼拝説教に留まらず、弟子づくりと洗礼、貧しい人への施し、子どもたちによる御国形成を含めたことがイエスによって教会に教えられている。

みことばを語れる人

最後に、テトスが「牧師」としてみことばを語るように促されている点について考えたい。テトスは牧師だったのか、クレタ全域における教会のリーダーだったのか、役職は定かではない。少なくとも「テトス牧師」という形で紹介はされていない。それは一旦置いておいて、みことばは説教でしか語られないのか、牧師にしか語れないのか、という点を考えたい。

熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

2テモテ2:15

2テモテ書はテモテ個人に向けた手紙で牧師に向けた勧めだと思われるが、この箇所は「これらのことを人々に思い出させなさい」(2:14)の文脈内にあるので、テモテが教会全体に促すべき事柄として書かれている。なので、すべてのキリスト者においてみことばを解き明かすことが求められている。

みことばを宣べ伝えなさい。ときが良くても悪くてもしっかりやりなさい。

2テモテ4:2

この箇所は確かにテモテ個人に書かれたことなので、牧師の役割にあてはまるかもしれない。しかし、「宣べ伝える」という言葉はギリシャ語で「κηρύσσω」=「ケルッソ」で、「発表する、宣言する、公の場で宣言する、神に託された者として伝える」などの意味が込められている。確かに牧師の役割の一つとしてみことばを教えることが含まれていて、それ以外にいは弟子づくりをし、教会を羊飼いのように導く役割がある。しかし、みことばを宣言する役割は牧師に留まらず、上記にも述べたように大宣教命令によりキリスト者全員が福音に宣言する使命が与えられている。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

1ペテロ3:15

ペテロはキリスト者全員にこう指示している。「何を信じているの?何故信じているの?」と聞かれたとき、キリスト者の答えは「日曜日の礼拝に来て説教を聞いてください。牧師と話してください」であってはならない。一人ひとりが聖書を読んで理解し、世の中の疑問に対して聖書的観点から答えられるようにしなければならない。牧師に頼るのではなく、聖書と聖霊に頼るよう育っていくべきである。

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