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Micah

ミカ7

7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。

ミカの時代は、1~6節にあるように罪がはびこっている時代だった。殺し合いが頻繁におき (2節)、リーダーは賄賂を求め (3節)、正しく生きていると主張する人はいるがその人を信頼するより茨の方が耐えられる状態 (4節)、隣人や友は信頼できない (5節)、そして家庭内でも反乱がおきている (6節)。ちなみに、イエスも6節をマタイ10:34-36で引用し、新約でも同じ状態であったことを現している。

この罪を犯しているのは神の民だったので、神はその罪を罰した。クリスチャンも罪を犯すと、神はそれを罰することがある。1コリント11:29-32に例があるが、聖餐を取る時に御体をわきまえずに取ったクリスチャンが病にかかって死んだと記されている。私たちは神の罰をどう受け止めるべきだろうか?その答えが今日の箇所に書かれている。

クリスチャンが罪を犯した時にまず起きることが、敵が私たちを欺くこと。クリスチャンなのに何故こんな罪を犯したのか?後ろ指を刺されて罵られる。そんな時、私たちは「主を仰ぎ見、救いの神を待つ」ことができる。自分の罪悪感に押しつぶされそうな時、自己卑下に陥るのではなく、救いをもたらしてくださる神を見上げることができる。

確かに罪を犯した私たちは「倒れた」。そして「暗やみの中にすわって」しまっている。その結果「主の怒りを負わなければならない。」罪を犯した以上、義なる神の罰を受けるのは当然のことである。罪の事実とその罰を受け止め、心を砕かれる必要はある。

同時に、敵は「わたしについて喜ぶ」道理はない。なぜなら、私たちは「起きあがる」から。「主はわが光」となり、「主はわが訴えを取りあげ」てくださる。罪の罰を受けた砕かれた状態から、神は私たちを引き上げてくださる。そして「わたしのためにさばきを行われる」。私たちに「対して」ではなく、私たちの「ために」裁きを行う。神が私たちを裁くのは、私たちがより罪悪感に陥るためでなく、神に立ち返り、救いの神にすがるためである。それを証拠に、「主はわたしを光に導き出してくださる」とある。そして結果的に「主の正義を見る」ことを通して、私たちは生きるべき道が示される。

罪を理解し、罰によって心が砕かれる。同時に、神が光へ導いてくださると胸を張って言える。このへりくだりと神への自信が、クリスチャンが神の裁きを受け止める方法といえる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-to-rise-after-we-fall-into-sin 

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