16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。
クリスチャンは単なる「宗教」信じているのではない。実際にイエス・キリストと共に過ごし、十字架上の死を目の当たりにし、死から復活したイエスと話して食事をし、天に帰るイエスを見送った目撃者の証言をベースにしている。その目撃者がクリスチャンの集まりだけにとどまり、礼拝を捧げるだけを重要視し、世の中の全てを否定しただけではキリストの教えは広まらない。彼らは、迫害されても、投獄されても、殺されても、福音を宣べ伝えることに人生を注いだ。隠れてプライベートで宗教を守る人は多くいるが、迫害されても信仰を生き抜く人はそれほどいないだろう。その信仰の姿勢を見て、多くの人はキリストに人生を明け渡し、クリスチャンとなってきた。
16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
マタイ7:16-20
19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
予言の言葉は神から与えられ、神に選ばれた人がそれを聖書に記している。そのみことばが私たちの「心の中を照らす」ときに、私たちはキリストを受け入れることができる。だから私たちはみことばに「目をとめている」必要がある。また、聖書を理解するために聖霊の働きは不可欠。なぜなら、人間の書いた神学書や参考書や信仰問答の解釈で聖書を読むと、聖書を自分勝手に解釈することにつながるから。聖書そのものを読み、聖霊による理解を得ることによって、みことばは生きたものとなり、私たちを変えていく。
12 神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
ヘブル4:12