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ヤコブ2:14-26

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた

24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

パウロによると、私たちは信仰だけによって救われる。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28) しかし、ヤコブは信仰だけでなく、行いも必要だと書いている(24節)。 この2つは矛盾しているのか?

パウロは、人が他に何を持っていようと、主イエスを信じる信仰がなければ、その人は義と認められないと断言し、ヤコブは、人がどのような信仰を装っていようと、それが善い行いを生み出すのに適した信仰でなければ、義認の問題において何の価値もないと断言しています。これが本当の説明であり、これらが彼らがこの問題を見ている「立場」であるとすると、この二人の作家の和解は簡単です。罪人がどのようにして神の前で義とされるかという質問があれば、それは「律法の働きなしに」信仰だけによるものであるというパウロの答えになるのは、昔も今も変わりません。また、義とされる信仰とはどのようにして示すことができるかと問われれば、ヤコブの答えは、聖なる生活と実際的な従順を生み出すものだけであるというものです。

https://biblehub.com/commentaries/barnes/james/2.htm

ところで、ある人が救いを受け入れたかどうかはどのように確認できるだろうか?パウロはこう書いている、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9) では、特定の言葉、つまり「正解」を言えば救われていることになるのか?何度か諮問会に参加したことがあるが、こればかりが強調されているように思える。「イエス・キリストは十字架にかかって、私の罪のために死んでくださいました。このことを信じます」という言葉を聞けばOK。この一つでも、つまり「イエス・キリスト」とか「私の罪」という言葉を聞けなかったらNG、みたいな諮問会はよくある。

確かに一つのバロメータは正しい知識と、それを口に出すことだ。しかし、救いは「心」が試されている。それを確認する手段は、このヤコブ2章に含まれている。

23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

アブラハムもラハブも、イエス・キリストの十字架を100%理解していたわけではないが、信仰とそれを表す行いによって義と認められた。つまり、本当の信仰があれば実を結ぶはず。その実を見ることができれば、その人が心全体でキリストを受け入れたかが確認できる。もちろん、これを見るにはその人に深く関わり、その人が考えていること、どのような行動をしているか、何故その行動をするのか、を理解する必要がある。「諮問会」という閉ざされた空間だけでは確認できない。リーダーは人と関わりをもって初めて人々の信仰をケアすることができる。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
ガラテヤ5

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