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ヘブル10

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた

'ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 ' ヘブライ人への手紙 10:8-10

神は律法に従って捧げられるものを望まない。いけにえや捧げものは実態であるイエス・キリストの影にすぎない。イスラエルがいけにえや捧げものをしたのは、イエス・キリストという完全ないけにえを見据えて、罪の赦しを得ていた。しかし、律法に従って献げられたにも関わらず、神はそれを望まず、好まれもしなかった。それは、いけにえや捧げ物にはキリストが欠如していたから罪が取り除かれることはなかった。いけにえや捧げ物によって何度も罪は赦されたが、完全に取り除かれるにはキリストの体が捧げられる必要があった。

'「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。' ヘブライ人への手紙 10:16-18

モーセ律法による契約はイスラエルの民に向けられていたが、キリスト者と結ばれた契約は律法を明示的に与え、そのルールを守るような内容の契約ではない。「律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつける」。キリストが罪を取り除いたのだから、律法(=神を求める心)が植え付けられ、その心から神が喜ばれる行動が成される。ルールを守ろうとしているのではなく、神を喜ばせたい心から善い行いをする。

'更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 ' ヘブライ人への手紙 10:21-23

私たちはキリストによって聖なる者とされ、神に近づくことが可能となった。旧約のように神の前に現れると死ぬことを恐れずに、イエスを「信頼しきって真心から」近づくことができる。そしてキリストが約束して下さったことにしがみつき、希望を持ち続けることができる。神との親密な関係を、救われた時から天に召されるまで、地上で何があってもキリストが全てを解決してくださることに希望を持てる。

'互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ' ヘブライ人への手紙 10:24-25

キリスト者は「集会を怠らない」ように指示されている。これは「互いに愛と善行に励む」ように「励まし合う」こと。日曜礼拝でこれができることもあるが、教会以外の場所で集まって食事をしたり、教会学校で聖書の適用について語り合うこともできる。教会によっては小グループで聖書の学び、祈り、分かち合いをすることもある。ここでの焦点は「互いに」であり、「神礼拝」とは別の観点が示されている。

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