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ピリピ1:21~30

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。フィリピの信徒への手紙 1:21 新共同訳

キリスト者にとって、生きることは日曜日の朝に礼拝をすることではなく、生きることはキリスト。つまり生活全体を通してキリストを中心とした生き方をすること。それは神を愛し、隣人を愛すること。神を愛するなら聖書を読んで祈り、神のみこころを常に探る。そしてみこころを追い求め、聖霊によってそれを成して行くと同時に、自然に罪から自分を遠ざけていく。隣人を愛するならイエスが行動に起こしたように、世の中の弱い立場の人たちに手を差し伸べ、見える形で助ける。教会という組織や建物が潤うことを望むのではなく、教会としてどのように隣人愛を示すことができるか考え行動する。

けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。フィリピの信徒への手紙 1:22‭-‬24 新共同訳

パウロは常にキリストと共にいたいと思っていた。世の中にいると気をそらすことが多くあり、これがかなわない。なので「この世を去って」永遠にキリストと共にいたいと書いている。キリスト者の最も大きな望みは永遠の命を得ることではなく、永遠にキリストと共に過ごすことができること。これが願いでなければ本当にキリスト者かどうか吟味しなければならない。

この「キリストと共にいる」という言葉からいくつか確認できるポイントがある。

That this was the true reason why he wished to be away. It was his strong love to Christ; his anxious wish to be with him; his firm belief that in his presence was “fulness of joy.”
(キリストと共にいることが)パウロが本当にこの世を離れたい理由。キリストに対する強い愛、共にいたいという切実な願い、そしてキリストの臨在は喜びで溢れていることへの信仰がパウロにあった。

Paul believed that the soul of the Christian would be immediately with the Saviour at death. It was evidently his expectation that he would at once pass to his presence, and not that he would remain in an intermediate state to some far distant period.
パウロは、クリスチャンの魂は死の直後に救い主と共にいると信じていた。すぐにキリストの臨在に置かれると信じていて、ある一定期間、どこかの中間地帯に魂が待機するとは信じていなかった。

the soul does not sleep at death. Paul expected to be with Christ, and to be conscious of the fact – to see him, and to partake of his glory.
魂は死後眠るのではない。キリストと共にいて、意識がはっきりしていて、目で見て、栄光を共に分かち合うことができると、パウロは信じていた。

the soul of the believer is made happy at death. To be with Christ is synonymous with being in heaven – for Christ is in heaven, and is its glory.
キリスト者の魂は死後喜びで満たされる。キリストと共にいることは天国で共にいること。キリストは天国にいて、天国の栄光そのものである。

Barnes Notes on the Bible

これほど大きな喜びの望みが控えているのだから、パウロはこの世に留まって諸教会のために働くことができたのだろう。この喜びを自分だけに留めることはせず、より多くの人に伝えたい。諸教会にもこの喜びを理解し実感することによって、広め伝えていく原動力にしてほしい。そのような願いからもパウロは地上に残る活力を得たのだろう。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。フィリピの信徒への手紙 1:27‭-‬28 新共同訳

「一つの霊によってしっかり立ち」
教会が一致してキリストの喜びを分かち合い、その喜びを伝えたいという思いを共有し、伝えることを行動に移し、祈り支える。これが理想的な教会における伝導の形。一部の人間が頑張って伝導しても、教会の支えがないと成り立たない。

「心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」

これは世の中のすべてを否定し、敵視することではない。むしろ福音はすべての人に伝えるべきことであって、どのように伝えれば理解してもらえるか吟味しなければならない。同時に、福音の中核である「信じる者は救われる」というメッセージに不必要な情報(クリスチャンはこのようなルールを守らなければならない)を付け足さないよう気をつけたい。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。フィリピの信徒への手紙 1:29 新共同訳

キリストを信じるだけで終わりではない。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。」世の中でキリスト者として生きると苦しみを受ける。キリスト者として誠実に生きようとしても、会社ではグレーなことを要求される。福音を伝えたり教会に招待しようとすると「怪しい宗教」扱いされてしまう。しかし、キリストのためならそれは「恵み」と考えられるほど、キリストへの愛で満たされたい。

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