二つの道、一つの目的地
「ローマ人への手紙による救いの道」について聞いたことがあるかもしれません 。それは、私たちが罪人であること(3:23)、罪の結果は死であること(6:23a)、イエスが私たちの罪のために死なれたこと(5:8)、そしてその結果として私たちは永遠の命という贈り物を与えられていること(6:23b)を理解することから始まります 。私たちがすべきことは、イエスは主であると告白し、イエスが死者の中から復活させられたことを心から信じることだけです(10:9)。これは神の救いの計画を理解するための非常に簡単な方法であり、あなたがキリストを知るようになったきっかけや、救いを明確に整理された形で理解した方法かもしれません。
エゼキエル書にも救いへの道がありますが、それはローマ人への手紙ほど明確ではありません 。それはむしろ「裏道」のようなものです 。そこでは、捕囚、アイデンティティ、そして心の変革というレンズを通して、同じ救いの計画が語られています 。バビロンにいるイスラエル人に向けられた預言の中に、福音のメッセージが含まれているとは誰が想像したでしょうか 。詳しく見ていきましょう 。
「石の心」
ローマ人への手紙による道が、私たちが罪人であることを示しているように、エゼキエルは私たちが罪を「受け継いでいる」ことを示しています 。エゼキエル書において、罪は単なる「悪い行い」としてではなく、「石の心」を持っていることとして描写されています 。
わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉体から石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。 — エゼキエル 11:19
わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたの中に新しい霊を授ける。わたしはあなたがたの肉体から石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 — エゼキエル 36:26
石の心を持っているということは、単に間違ったことをするという意味ではありません 。石と同じように、その心は死んでおり、反応がなく、冷たいのです 。これはエゼキエルが「背きと罪の中に死んでいた」(エペソ 2:1)状態の心を表現する方法です 。私たちはこの石の心を持って生まれました 。それは、アダムとエバがエデンの園で罪を犯したときに私たちが受け継いだものです 。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に広がったのです — ローマ 5:12
エゼキエルは、神が国を滅びから守るために『破れ口に立つ』たった一人の人を探し求めましたが、ついに誰も見つからなかったことさえ記しています。ゆすりや強盗が横行する中で、それに立ち向かう者は一人もいませんでした。悪に対して声を上げ、人々に神に立ち返るよう促せる者も皆無だったのです。それは、彼らがみな『石の心』を持っていたからです。まさに『正しい者はいない。一人もいない』(ローマ 3:10)という状況でした。
個人的な責任 (エゼキエル 18:4)
もし私たちが石の心を受け継いでいるのだとしたら、私たちに責任はないのではないでしょうか。結局のところ、罪を犯したのはアダムとエバです 。私たちは単にこの罪の性質と石の心を受け継いだ被害者に過ぎないのでしょうか 。
ここでエゼキエルは、集団としての罪ではなく、個人としての責任に焦点を当てています。
見よ、すべての魂はわたしのもの。父の魂も、子の魂もわたしのもの。罪を犯す魂は死ぬ。 — エゼキエル 18:4
神は、私たちが単なる生物学的な偶然や両親の産物ではないことを思い出させてくださいます 。私たちは神の創造物です 。すべての魂は神に属しています 。自分の個人的な選択をアダムのせいにすることはできません 。アダムは罪の性質として「石の心」を私たちに与えたかもしれませんが、その性質に基づいて行動しているのは私たち自身なのです 。たとえ車が最初から壊れていたとしても、それを溝に突っ込ませるという選択をしているのは、他ならぬ私たちです。エゼキエルは、私たちが犯す罪に対して個人的に責任があることを確立しています 。
不可能な要求 (エゼキエル 18:31)
私たちは石の心を受け継ぎ、その心から生じる冷たく罪深い行動に対して個人的に責任があることを確認しました 。どうすればこれから解放されるのでしょうか 。神との関係を回復するために、私たちは何をすべきでしょうか 。
エゼキエルはこう命じています。「自分たちのために新しい心と新しい霊を作りなさい」 。
あなたがたが犯したあらゆる背きの罪を投げ捨て、あなたがた自身のために新しい心と新しい霊を作りなさい!イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。」 — エゼキエル 18:31
どうすればそんなことができるのでしょうか 。どうすれば自分の石の心を取り出し、肉の心にすることができるのでしょうか 。私たちは自分自身で心臓移植を行うことなどできません。それどころか、私たちはいわば石像のようなものです。自ら「変わりたい」という最初の思いさえ、私たちには浮かばないでしょう。石像が突然、『肉の心が欲しい』などと考えるはずがないのです。
捕囚の身であったイスラエル人が、神の助けなしには砂漠を歩いて帰り、国を再建することができなかったように、私たちも自分自身の力で新しい性質を手に入れることはできないのです 。
神による心の手術 (エゼキエル 36:26-27)
私たちに肉の心を望ませるのは、神です 。神は心臓手術のやり方のマニュアルを渡すのではなく、ご自身でその手術を行ってくださいます 。
「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたの中に新しい霊を授ける。わたしはあなたがたの肉体から石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたの中に授け、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」 — エゼキエル 36:26-27
神は私たちを切り開き、石の心を取り出し、それを肉の心に置き換えてくださいます 。肉の心は、私たちが神を仰ぎ見、神の道に従うことを可能にします 。また、神は私たちに聖霊を与え、イエスへと、そして聖さへと私たちを導いてくださいます 。聖霊は絶えず私たちを聖め、私たちをよりイエスに似た者へと変えてくださいます 。
これは、ローマ人への手紙8章にあるメッセージと全く同じです 。御霊は私たちに命を与えてくださいます 。御霊は私たちが罪を死に渡らせ、真に生きることを可能にしてくださいます 。
もし、イエスを死者の中から復活させた方の御霊があなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも生かしてくださるのです。」 — ローマ 8:11
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によって体の行いを死に渡らせるなら、あなたがたは生きるのです。 — ローマ 8:13
立ち返って、生きよ
神は私たちが生きることを望んでおられます 。私たちの石の心を肉の心に置き換えたいと願っておられます 。私たちに、罪から離れて聖められた生活を送ることを可能にする御霊を与えたいと願っておられます 。これがエゼキエル書における神の訴えです 。
わたしは誰の死も喜ばない。主なる神が宣言される。だから立ち返って、生きよ。 — エゼキエル 18:32
ローマ人への手紙の道を通るにせよ、エゼキエルの道を通るにせよ、目的地は同じです 。それは単に天国に行くことではありません 。罪の捕囚(追放)から「家に帰る」ことなのです 。それは、神と共に生きる道へと立ち返ることなのです 。