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Thessalonians

1テサロニケ3:1~6

わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 テサロニケの信徒への手紙一 3:2‭-‬3 新共同訳

パウロがテモテを派遣した理由は、「励まして、信仰を強め、苦難に遭っていても同様することのないようにするため」。指導者としての役割は、苦難に遭っても揺るがない信仰を確立させること。それは「日曜礼拝を守る」という端的なことではなく、日々の生活の中でキリストを宣言すること。職場の同僚に、キリストが人生の中でどう関わっているかを証する。親戚に、キリストの愛を見える形で現わす。他のキリスト者がいない環境こそ、揺るがない信仰が試される。

そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。 テサロニケの信徒への手紙一 3:5 新共同訳

「誘惑する者」は常にキリスト者を惑わそうとしている。だから敵の存在を意識することと、それに対向するための措置を用意しておく必要がある。真理、正義、福音、信仰、救い、みことば(エペソ6:14~17)の神の武具をつけることと、「御霊によって祈る」「目を覚ましている」ことが重要。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

1ペテロ5:8
ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 テサロニケの信徒への手紙一 3:6 新共同訳

何が嬉しい知らせだったのか?「あなたがたの信仰と愛」「好意をもって(パウロ)たちを覚えている」テサロニケ教会においてキリストに繋がる「信仰」の一致があり、キリストに愛されていることを実感した上で互いを愛していた。この溢れる愛が教会内に留まらず、外に目を向けるようになる。宣教師や教会外で働く人たちのために祈り、自分たちも宣教に対して好意を持ち、励むようになる。

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Thessalonians

1テサロニケ2:10~20

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:11‭-‬12 新共同訳

パウロとテサロニケ教会は親子の関係のようだった。指導者としてパウロは「こうだ」と示すときもあれば、「一人一人にい呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めた」。人はそれぞれ霊的成長の過程が違っていて、それぞれに合った接し方や言葉がある。自信がない人は励まし、進んでいる方向が正しいことを肯定すること。失敗をしてしまった人は慰め、イエスの赦しを示す。なかなか前に進まない、現状に満足している人には強く勧める。これをする目的は神の「国と栄光にあずかる」こと。つまり、福音を広めることによって神の国が広まることに貢献し、神の栄光を称える人生を送ること。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 テサロニケの信徒への手紙一 2:13‭, ‬19 新共同訳

「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」 パウロが語った言葉は神の言葉だったのか?パウロは新約聖書の大半を書いていて、その書かれた言葉は間違いなく神の言葉である。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

テモテへの手紙第二 3章 16〜17節

考えられることとして、パウロが語った言葉は神の言葉である旧約聖書を引用していた。また、パウロはキリストと直接会った使徒として、イエスの言葉を直接語ることもできた。そういう意味では、パウロは神の言葉を語っていた。それを証拠に、「信じている(テサロニケの人々)の中に現に働いている」。言葉が聖霊を通して人々の中に働き、キリストにある成長へとつながっていた。

では、説教は神の言葉なのか?上記の考え方でいくと、説教が聖書を語っている限り神の言葉であることは間違いない。しかし、聖書から脱線した話や、その聖書箇所と無関係な私的解釈は神の言葉とは言えない。ましてや、思い出話で体験を語ることも、人の心を動かすことはできるかもしれないが、神の言葉と宣言することはできない。説教者にとって神の言葉である聖書を忠実に語ることが求められている。

ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:15‭-‬16 新共同訳

「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。」福音を妨げる人や、宣教活動をサポートせず批判しかしない人は、「自分たちの罪をあふれんばかりに増やしている。神の怒りは余すところなく彼らの上に臨む」。それだけ神は宣教に重きを置いていて、それを妨害する人に怒りを向ける。教会内の行事に重きを置きすぎて宣教活動を批判・妨害をしていないだろうか?罪を増やしていないか?神の怒りを買っていないだろうか?

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Thessalonians

1テサロニケ2:1~9

わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:4 新共同訳

「人に喜ばれるためではなく」福音に忠実でいるために、神に認められるために、人に喜ばれる福音の伝え方をしてはならないのか?教会でバザー、キャンプ、イベントなどを通して福音を伝えるのは相応しくないのか?

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 テサロニケの信徒への手紙一 2:5‭-‬6 新共同訳

「相手にいへつらったり、口実をもうけてかすめ取ったり」ここで言っている人を喜ばせる動機は、自分の利益。自分が注目を浴びて、自分自身が満足すること。教会に多くの献金が集まり、財政が潤うこと。後者については、潤った財政をどう使っていくかによって善悪が問われるが、一旦は置いておこう。イベントをすることによって人ではなくイエス・キリストに焦点が当たっているか?バザーをすることによって財布ではなく魂が潤うようになるのか?これが問われている。

ちなみに、イベントをしなくても自分自身に焦点を当てている場面もある。自分たちが築き上げた文化や伝統を固く守ることも、聖書ではなく自分自身を満足させている。教会財政が潤っているのを良いことに新しい会堂を建てようと必死になり、本当に財政を必要としている人や宣教師や他教会が見えなくなる。ここまでくると、「汚れのない宗教」について聖書から学び直す必要がある。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

ヤコブの手紙 1章 27節
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:7‭-‬8 新共同訳

「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたい」福音を伝えることだけなら説教でもできいる。しかし命(psychas)を与える、もしくは人生や生活を分かち合う(metadounai) ことは、説教だと一方通行のメッセージなため、分かち合うことは不可能。本当に福音を分かち合うには礼拝以外、説教以外の場で「命を分かち合う」必要がある。そうすることによって初めて、単なる一方通行の人が語る言葉から、神に命を吹き込まれた福音のメッセージに変わる。

バザーやキャンプやイベントを通して福音を伝えるのは相応しいか?この聖書箇所を見る限り、相応しいだけでなく、分かち合いのためには不可欠。イベントをすることによって焦点がキリストに当たり、分かち合いの中で生きた福音を伝えていくことがポイントになる。生きた福音によって、イエスと聖霊によって変えられた人が、やがて礼拝と教会につながっていく。

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Thessalonians

1テサロニケ1

そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 テサロニケの信徒への手紙一 1:6‭-‬7 新共同訳

パウロがテサロニケ教会と接したのは短い間だったが(使徒17:2)、どのようにして「すべての信者の模範となる」教会へと育つことができたのか?一つ考えられることは、パウロは一般信者が教会の中で機能するように育てたからだ。信者に成長するための装備を与え、リーダーを育て、信仰の文化を確立し、信者が神の働きに参画できる環境を作った。主にあって成長し、互いに仕え、互いを立てあげ、教会外へと手を伸ばす「健全な教会」を建て上げた。

「健全な教会」を考える時に5つのパラダイム変革が必要。

1. 誰が教会を建てるのか?

従来のパラダイム:リーダーが教会活動を行い、教会が建てられる。リーダーが教会を建てる。

新約聖書のパラダイム:人々が教会活動を行い、教会が建て上げられる。人々が教会を建てる。

2. 一般信者の役割は何か?

伝統的なパラダイム:人々は困っている存在で、リーダーの教会活動の受動的な受け手である。

新約聖書のパラダイム:人々は、ミニストリーの働きの中で積極的に機能する。

3. リーダーの役割は何か?

伝統的なパラダイム:リーダーの役割は、教会活動の全ての仕事をすること。

新約聖書のパラダイム:リーダーの役割は、人々に装備を与え、リーダーを育て、文化を形成し、人々が教会活動をするための環境を整えること。

4. 「教会」はいつ、どこで起こるのか?

伝統的なパラダイム:「教会」は日曜日の朝、建物の中で行われる。

新約聖書のパラダイム:「教会」は、一週間を通して、それぞれの家庭、職場、生活の中で行われる(使徒2:42-47)。

5. 健全な教会はどのようにして作られるのか?

伝統的なパラダイム。効果的な教会のプログラムを実行する。

新約聖書のパラダイム:人々を建て上げる。

A Portrait of a Healthy Church, Malcolm Webber
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Colossians

コロサイ4:10~18

・・・アリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが・・・ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。 
コロサイの信徒への手紙 4:11 新共同訳

ユダヤ人がキリスト者になった時にはすでに割礼を受けていた。しかし異邦人は律法を知らないままキリスト者になったので、割礼を受けていない人がほとんどだった。それに納得しないユダヤ人は異邦人も割礼を受けるべきだと主張した。これを救いの要件に含む事によって、神の国を広めることを阻んでいた。しかし、この三人は「神の国のために共に働く者」とされていることから、彼らは割礼の必要性を主張していなかったと推測できる。福音のメッセージに何か付け加えていないか?(信じること以外に完璧に諮問に答えなければならない、とか)神の国を広めることの弊害になっていないか?(教会の風習に合わなから参画させない、とか)常に吟味する必要がある。

あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。 
コロサイの信徒への手紙 4:12 新共同訳

完全な者となり、神の御心をすべて確信することがキリスト者のゴール。礼拝をすることはキリスト者が当たり前にすることだが、ゴールではない。では「完全な者」とはどのような状態だろう?

“あなたの天の父が完全であるように、あなたも完全でありなさい” さて、あなたの天の父は完全であることを覚えておいてください。ですから、もし私たちが神の姿を映し出すのであれば、私たちは神の道徳的な卓越性においても、またその他の点においても、神を映し出す必要があります。実際、この世の人への基本的な呼びかけは、神の人格を反映する者になることです。それが、神の姿に似せて創られたということです。

https://www.ligonier.org/learn/qas/when-jesus-says-be-ye-perfect-your-father-heaven-p/
ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。 
コロサイの信徒への手紙 4:15 新共同訳

「教会」という建物で集まる人たちだけが教会ではない。信者がキリストの名によって集まると「教会」と呼べる。誰かの家であっても、カフェであっても、Zoom会議であっても、そこに集まる人達が教会。「無教会」と呼ばれている人たちがいるが、その人達が集まってやっていることを聞くと、賛美、祈り、聖書の学び、交わり、が含まれていることから、立派な「教会」と呼べる。

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

マタイの福音書 18章 20節
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Colossians

コロサイ4:1~9

目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。 コロサイの信徒への手紙 4:1 新共同訳

“私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。” コリント人への手紙第二 10章 3〜4節

つまり、ミニストリーは戦争なのです。私の心の中の信仰のための戦いは、戦争です。人の魂のために戦うことは戦争です。クリスチャン・ライフのすべての側面が戦争なのです。

ほとんどの人はこのことを信じていません。どうやって祈るように促すことができるでしょうか?信じていると言っていても、自分の人生を考えてみてください。教会では、平時の気軽さ、霊的なことに対する気軽さがあります。彼らの人生には、爆弾が落ちてくることもなく、頭上で弾丸が飛び交うこともなく、地雷を避ける必要もなく、地平線上に轟音が響くこともありません。宇宙のディズニーランドと呼ばれるアメリカでは、すべてが順調なのです。なぜ祈るのか?

信者の手の中で祈りが誤作動を起こす一番の理由は、戦時中のトランシーバーを家庭用のインターホンに変えて、メイドに枕を持ってくるように呼び出そうとするからだ。祈りは戦車用に作られている。塹壕のために作られている。戦争のために作られている。ヨットに取り付けても動かない。湖畔のキャビンでは使えない。2台目、3台目、4台目の車には使えない。

人生は戦争だと思うまでは、何のために祈りをするのか分かることはできない。

https://www.desiringgod.org/interviews/why-comfortable-christians-go-prayerless
同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。 コロサイの信徒への手紙 4:3‭-‬4 新共同訳

祈る第一の理由は、自分たちの欲を満たすことや、楽を求めるためではない。霊的な戦争における、魂の救いのための祈り。その最前線にいる福音を語る宣教師や牧師のために祈る。また、「しかるべく語る」ことができるように祈る。自分の思いや神学的スタンスを押し付けるのではなく、救いをもたらす福音を伝えるように祈る。

時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。 コロサイの信徒への手紙 4:5‭-‬6 新共同訳

牧師や宣教師でなくても、一般信者にも福音を伝える義務がある。「時をよく用い」日々接している人とキリストにある人生を分かち合う。その関係から福音を伝える機会を常に見定める。知らない人に対していきなり神や魂や天国や地獄の話をしても伝わらない。私達が相手のベストを求めている、と思ってくれるほどの信頼関係が必要。また、「賢くふるまう」こと。カルトのように、ただ指導者に言われたことを信じるのではなく、自分で聖書を読んでよく考え、理論的に組み立てて話せるようにする。そうすることによって「塩で味付けされた快い言葉」を語ることができる。「味付け」は食事の魅力を引き立てるが、「塩辛い」と食べたくなくなる。キリストの福音が引き立つ言葉を語れるようになりたい。

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Colossians

コロサイ3:15~25

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 コロサイの信徒への手紙 3:15‭-‬17 新共同訳

この箇所はコロサイ教会に向けられた言葉なので、教会のありかたを示している。

「キリストの平和があなたがたの心を支配する」 キリストが十字架でしてくださったこと、私達を救って下さったことを受け入れ、常に感謝の心をもつこと。この心が真の平和を生む。世の中の状況や心配事、人間関係や異文化に疲れた事で心を支配されるのではなく、キリストの平和に支配してもらう。

「あなたがたは招かれて一つの体とされた」 「教会」は新約聖書で「ekklesia」。この言葉は「ek」と「kaleo」の2つの言葉で構成されていいる。この箇所で使われている「招かれて」も「kaleo」を使っていて、意味は「呼び出す」「招く」。「ek」は「〜から」という意味がある。合わせると、「〜から呼び出された、〜から招かれた」というのが教会。集められた人たちに焦点があたっていて、建物や場所は指していない(シナゴーグという言葉は使っていない)。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る」 キリストの言葉は人が語る説教だけでは得られない。自分でキリストの言葉(聖書)を読み、理解を得られるように聖霊に頼ることが必要。「内に豊かに宿る」には日々続けて行うことが大事だが、ただ読むだけでなく思い巡らすことも必要。思ったことを書き留めることも助けになる。

「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」 キリストの言葉が内に豊かに宿れば、教会で集まった時に互いを高め合うことができる(箴言27:17)。誰かが一方的に教えるのではなく、「教え合う」。誰であってもお互い学び合うことができる環境が望ましい。一人の考えを全員に押し付けるのではなく、「論し合う」。これには相手の言っていることを理解しようとする姿勢が必要。常に間違ったことを正そう、という考えがあっては聞くことができない。

「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」 教会音楽は「讃美歌」や「聖歌」だけではない。讃美歌や聖歌は「賛美」の部分しか扱っていない。「詩篇」で聖書のことば自体を歌うことや、「霊的な歌」で聖霊が個人の心を動かして書いた歌も含まれる。これらはオルガンやピアノというスタイルに固執したものではなく、エレキギターやドラムでも表現できる。大事なのは「心から神をほめたたえる」こと。オルガンやピアノでも正確さに焦点を当てすぎて心からの賛美がでなくなる場合がある。エレキやドラムの方が心からの賛美を促すことができることもある。

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い」 教会が言うこと、行うことは「イエスの名によって」行う必要がある。イエスが教えた、「神を愛し、人を愛する」新たな律法。イエスが地上で示した愛の行動や活動方法。イエスが出した大宣教命令。イエスに習うことが「イエスの名によって」行動することにつながる。人よりも聖書、律法よりもイエスを見て「イエスの名によって」行動していきたい。

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コロサイ3:1~10

'あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 ' コロサイの信徒への手紙 3:3-4

このイエスとの祝福された結びつきから得られる結論は、私たちはクリスチャンとして、霊的実態の事実に忠実に行動し、私達の仮の住処であるこの世に背を向けて、上にあるものに心を向けなければならない。「神の右に座している」キリストは、磁石のように、私たちの意識をご自身にき寄せてくださる。キリストと結びつくことで私たちはこの世に対して死に、キリストと共に、願望、思考、要求、 愛、従順に生きるようになる。そしてキリストは、信仰によって地上に展開される天の御国で新しい生活を送るようにされた。私達の魂を支配し、祝福される。

MacLaren’s Expositions
'造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 ' コロサイの信徒への手紙 3:10

外側の人が衰えても、新しくされた内なる人は、日ごとに新しくされ、聖さと義を増し、恵みを増し、特に “知識 “を増していく・・・恵みの原理は、霊的な知識から始まり、それに合わせて形成され、恵みの増加は霊的な知識の中にあるということ。

Gill’s Exposition of the Entire Bible

キリストに結びついていることを認識する。キリストご自身が私たちを引き寄せてくださる。この事実があるから私たちはこの世に背を向けられるようになる。天の御国は未来の出来事だけではなく、現在地上において展開されている御国もある。この場所で「真の知識に達する」まで御言葉を読み、聖霊に教えられていく。知識とは、ただ情報を知るだけでなく、恵みとして体感していく。この体感した恵みを広め、結果的に御国を広めていく。

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コロサイ2:16~23

'だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。' コロサイの信徒への手紙 2:16

「食べ物や飲み物のこと・・・でだれにも評価されてはなりません」

教会によって聖餐の考え方やとり方は違う。ルーテル教会では「実体共存説」(consubstantiation) に基づいて、パンとブドウ酒と共にキリストが共存する、という考えで聖餐をとっているので、聖職者がパンとブドウ酒を祝福し、聖別する必要がある。改革派は聖餐を「印」としていて、「神の民」として一つのパンを分け合って、民の一員であることを覚えるので、実際に一つの場所に集まって聖餐を取る以外に方法はない。

もう一つの考えは、聖餐はイエスの十字架を覚える機会であること。イエスはパンとブドウ酒を弟子たちに渡したとき、「覚える」ことを言葉の中心に置いている (1コリ11:24)。「覚える」= anamnesis = 思い起こす、起きた出来事(イエスの十字架)の効力を認識し感謝する。パンとブドウ酒自体に特別な効力はない。イエスの十字架に効力がある。「神の民」を重要視するイベントではない。イエスの十字架を覚えるのが重要。こう考えると、「教会」と呼ばれる建物で集まって聖餐を取る必要はなく、「覚える」事を重要視できる環境が整えば十分なはず。なので、リモートで個別にパンとブドウ酒を準備し、他のキリスト者と心を合わせて聖餐をとることも考えられる。また、家庭内で親と子供がキリストを覚えて聖餐を取ることも考えられる。

'あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 'コロサイの信徒への手紙 2:20-23

「手をつけるな。味わうな。触れるな」

舌触りの良い食べ物は一切許さず、乾いた粗いパンを食べ、水しか飲まなかった。彼らの多くは、日没まで何も食べず、自分の宗派に属さない人が触れると、最も深く汚されたかのように身を洗った。

Barnes’ Notes on the Bible

ユダヤ人の律法学者は宗教的に清くあることを常に追求し、他人にも要求していた。律法に書かれている通りの生き方に留まらず、さらに飛躍した解釈によって人々を縛った。かつて免罪符を売ったカトリック教会もこのような動きがあったが、今日でも「教会戒規」という「脅し」を使って、人々を教会に縛り付ける事が見られる。神の言葉(律法、聖書)を人々が読まないことを良いことに、リーダーは無知な人々に不必要なルールを押し付ける。しかし、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」人が作ったルールは「肉」を満足させるだけ。「天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)。

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コロサイ2:8~15

'人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 ' コロサイの信徒への手紙 2:8

神の存在を否定する「科学」にのっとった教育。神は様々な所に宿っていて、気を付けながら生きなければならない文化。神を信じるならば様々なルールを守らなければならないという、人間の努力を中心とした信仰。神のみことばが与えられているにもかかわらず、神を理解するには専門家の話を聞く必要があるという他人だよりの宗教。どれをとっても、「人間の言い伝えにすぎない哲学・・・むなしいだまし事」。

'あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 ' コロサイの信徒への手紙 2:11-12

ユダヤ人は「神の民」とされていて、それを証明するために割礼を受けた。新約のキリスト者も「神の民」と証明する必要はあるのか?これが「洗礼」だという人がいるが、教会が「救い」を確認し、それを「承認」する行為として洗礼を授けている。割礼のように人に頼る肉体的なプロセスになり下がっている。私たちは「肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」た。キリストが私たちを肉の行いに頼ることから解放して下さった。また、洗礼は「キリストと共に葬られ・・・キリストと共に復活させられた」ことを象徴する行為。キリスト者が「神の民」であることを証明する「印」ではないし、教会の判断に頼る行為でもない。「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ」る、この一点に限る。

'肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。 ' コロサイの信徒への手紙 2:13-15

「肉に割礼を受けず」にいても、キリストは私たちの罪を赦した。洗礼という「印」を受けなくても「神の民」とされた。「規則によって・・・訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにし」た。もはや律法はキリスト者を拘束する力はなく、キリストによって赦され、生かされた存在となる。「安息日」、「十戒」、「十一献金」、「割礼=洗礼」。どれも神がイスラエルに与えた律法であり、キリスト者には良い「規範」(神が求めたことは理解できる)ではあるが、「規則」(絶対守らないと罰せられるルール)ではない。キリスト者の「規則」はキリストが教えたこと。それを守れない人たちには、キリストと同じように愛をもって接することが求められる。