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1 John

1ヨハネ3:19-24

私たちはイエス・キリストに信頼をおき、キリストのために生きている。しかし、私たちの罪や弱さゆえに、私たちは本当に救われているか分からなくなることもある。今日の箇所はそんな時のために与えられているような気がする。

19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。

「それによって」とは、前の箇所で書かれているように、キリストは私たちを愛して下さったから、私たちは兄弟を愛する、ということを指していると捉えられる。つまり、兄弟を愛することができていて、行動にも現れているなら、私たちはキリストの内にいる。なぜなら、キリストが内にいないと兄弟を愛することができないから。

20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

私たちの心は弱く、罪を犯したり、他人に間違いを指摘されると、心を神に向けるのが難しい時がある。それでも神はすべてをご存知で、私たちのもろい心を守り、癒やして下さる。そして私たちが神に立ち返ることができるように私たちを導いて下さる。私たちが頑張る必要はない。神が心を変えて下さる。エジプトやバビロンなどの大国の王の心を変えることができる神に信頼をおくことができる。

21 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。

心が神に向いていれば、「願い求めるものは、なんでもいただける」。それは、私たちの欲を満たして下さるということではなく、私たちが「みこころにかなうこと」を理解することができ、それを願うようになるから。心を神に向けることによって、神が何を望んでいるのか、何について喜ばれるか、私たちに何を求めているのか、などを知ることができる。それを願い求めれば、神は必ず与えて下さる。

23 その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

「神の戒めを守る」ことについて、「戒め」の定義がされている。それはイエス・キリスを信じ、互いに愛し合うこと。それだけ。私たちは組織に入ると多くのルールを作りたがるが、神が求めていることは神を愛し(イエスに信頼し)、隣人を愛すること。それを守っている人がキリストの内にいる。誰に何を言われようと、キリストを求めていることこそが信仰がある証拠。そして聖霊が私たちに信仰の確信を与えて下さる。

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Peter

2ペテロ2:10-22

10 こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。11 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

にせ預言者は「栄光ある者たち」をそしる。「栄光ある者たち」というのは、神とキリストのことを指している。それに比べて御使い=天使たちは、にせ予言者たちをそしらず、裁きを神に委ねている。にせ預言者と天使たちの対応に大きな差が見える。一方は自分たちが正しいと主張し、自分たちの考えをベースに神が愛する人たちを (「戒規」という名のプロセスにを利用して) 裁く。もう一方は裁く権利があったとしても神に裁きを委ねる。

12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

また、にせ予言者は動物のように例えられている。自分たちが何を語っているか理解せず、その発する言葉でキリストの栄光をそしっている。この人達は動物のように「必ず滅ぼされてしまう」。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)。私たちは自分に満足せず、辿り着いた場所におごらず、絶えず神の恵みに頼ることを覚えるべき。

13 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。14 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は・欲に慣れ、のろいの子となっている。15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

まるで教会内で宴会が開かれていて、にせ予言者たちは「しみ」や「きず」でありながら平然と参加している (3:14とは正反対)。その人達は常に淫行の目で教会をを見渡し、弱い立場の人を誘惑し、金銭的な欲に潰れる。それはまるでモアブの王がバラムという予言者にに呪いを語らせるように金銭を支払ったかのうよう (民数記22:7)。にせ予言者は、特別な教えを授ける代わりに金銭を要求していたと思われる。誰だって金を払えば、その対価を真面目に受け取るだろう。教会に投資すれば投資するほど、間違った教えにも耳を貸してしまう。

そして、にせ予言者は14節にあるように「定まらない者を誘惑」する。18節でも同じようなことが書かれている。「迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し」つまり、クリスチャンになったばかりの人や、真理が定まっていない人のことを指している。ここで語られているのはまず、自分自身が聖書をしっかりと理解して真理の土台を築くこと。そして自分の子どもたちや新たなクリスチャンに対しても聖書の真理に立てるように育てることが急務。教会として互いに聖書に根付くように励まし合うことが重要。

17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。

教会内で水のない井戸と、生ける水の区別がつくようになる必要がある。一方は永遠の命が溢れ出る。もう一方は闇に落ちていき、泣き叫びや歯がみがあるところに導いてしまう。見極められる人たちになりたい。

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

にせ予言者は自由を約束して新たなクリスチャンや定まっていない人たちを誘惑する (19節)。しかし、本当の自由は 1) キリストの十字架によって私たちを罪の力から開放したこと、2) 自分の力で律法を守る必要がなくなったこと、3) 聖霊に新たな心が与えられ、聖なる者になることに喜ぶこと。

あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

ガラテヤ5:13
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

キリストを知れば知るほど、キリストに従わない罰は重くなる。知らなかった状態の方がむしろ良かったと思えるほどになる。ここでは神が選びだしたクリスチャンは救いを無くすことができるとは教えていない。しかし、教会員の中では、信仰を告白し、教会の行事に参加し、教会のルールを守っていても救われていない人もいる可能性があることを指している。ルールに従ってもキリストに従っていなければクリスチャンではない。世の中の人はルールに縛られる生き方に常に戻りがち。まさに「犬は自分の吐いた物に帰り」、豚はどうきれいにしても豚のままであることが分かる。

19 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。

1ヨハネ2:19

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル3:14

救われた者は最後まで信仰を保つ(=キリストに従う)、と聖書は示している。2ペテロ2章は救いを確認するための箇所でもある。私たちを贖った主を否定しないように警告し(1節)、霊的な高慢と自己満足 (11−13節)、金銭を愛すること (14-16節)、みだらな行い(2, 7, 14, 18節) の誘惑に陥らないよう力づけてくれる。

上記の多くはジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/better-never-to-have-known-the-way
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James

2ペテロ2:1-9

2章のポイントは1節、3節、12節、17節に記されているが、そのうちの2つが今日の箇所に含まれている。1節には、主を否定して自分たちに滅びに至らせているとある。3節には、「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」とある。つまり2章では、にせ預言者とそれに従う人たちに滅びがあることを警告している。

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。3 彼らは、欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

まず分かるのは、「民の間に、にせ預言者が起こった」こと。外から来たのではなく、すでに集まっていた人たちの中からにせ預言者が現れた。長年リーダーをやっていた人。昔からいて影響力が強い人。取り組んできたことに自信を持ちすぎて「すでに学んだ」と主張する人。こういう人たちからにせ預言者が現れる。

このにせ預言者たちは「自分たちをあがなって下さった主を否定する」。すでに学びきっていると思い込み、自分が正しいと思い込み、違う意見はすべて間違っていると宣言してしまう。そうなるとイエスの教えを見直して自己吟味することを忘れてしまう。イエスが教えたように弱い人に寄り添い、身を低くして同じ目線で会話し、赦しの姿勢を常に保つ、ということを忘れ、否定さえもする。つまりイエスが十字架でしてくださったことを否定していて、イエスご自身をも否定していることになる。

「大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至る」リーダーの中ににせ預言者がいると教会全体に影響してしまう。リーダーは教会の模範であるべきだが、悪い模範だとそれに見習って教会員も同じ振る舞いをしてしまう。「あの教会はうちと違うからダメなんだ」「あの人はうちと違う考えを持っているから勝手に出ていったんだ」自己吟味をせず相手を批判し続けることによって、いつの間にか自分たちもリーダーのようににせ預言者となってしまう。

このようなにせ預言者に対抗するための措置として以下が考えられる。

  • 教会内ににせ預言者が起こされることを理解し、聖書を自分たちでしっかりと理解し、にせ預言者を正していく。(ヘブル4:12)
  • 「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」ことを覚え、にせ預言者に対する裁きの重大さを受け止める。
  • 裁きを逃れるためには悔い改めしかない。誰でも間違いは犯すが、自己吟味し、イエス・キリストに赦しを求めるならば、必ず赦される。(1ヨハネ1:9)
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Peter

2ペテロ1:1-11

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

イエス・キリストとの義によって、わたしたちは信仰に預かる。イエスが十字架にかかって私たちの罪の代価を支払ったことによって、私たちの神に対する負債はなくなった。私たちが犯してきた罪、今も犯している罪、今後犯す罪は全てキリストの十字架によって赦されている。だから私たちは神と義の関係をもつことができる。裁く者と裁かれる者の関係ではなく、「アバ、父よ」と呼べる関係に修復された。だから私たちに「恵みと平安とが・・・豊かに加わる」。イエスを知ること、神を知ることが真の喜びであり、この世が与えられない恵みと平安がイエスとの関係の内にある。

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

いのちと信仰に係る全てのことは、イエスの力によって、私たちに与えられている。神に直接祈ることができるし、現代では聖書が与えられ、それを読むことによって神からの直接なメッセージを受け取ることができる。教師や牧師の力を借りなくても、自分で聖書を読み、聖霊に明らかにしてくださることによって信仰を育てることができる。また教会で聖書について分かち合うことによって、励まし合い、互いを建てあげることができる。人の書いた本では励まし合いには限界があるが、聖書を分かち合うことは永遠につながる。聖書が全てのベースとなっているからこそ、説教も聖書を忠実に語らなければならない。語り手の神学や人間的理念に聖書のメッセージがかき消されたら説教の良さがなくなってしまう。聖書を読むことを推奨しなければこのような問題をチェックするすべもなくなる。「すべてのものを識別して、良いものを守る」(1テサロニケ5:21) ことが重要なので、聖書を読み続けたい。

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。

キリストを信じて信仰を持つことはスタートにすぎない。信仰に徳を加え、知識、節制、忍耐、信心を加えていく。ここまでは自分の成長に関することだが、クリスチャンは自分さえ成長すれば良いことではない。兄弟愛と愛を加え、互いを思いやり、互いのために祈り、互いのために尽くすことが重要。これはただ日曜礼拝を「守って」いるだけでは起きない。日曜礼拝以外の、共に学ぶ場や祈り合う場、物理的に支え合うことによってクリスチャン同士の兄弟愛を強めることができる。そしてそれが教会に留まらず、教会外の人たちにキリストの愛を示し、「実を結ぶ」ようになっていく。この成長がクリスチャンに求められている。

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。

この成長段階のどこかで止まっていて「成長しきった」「もう聖書は学んだ」と言っている人は「盲目であり、近視の者である」。だから礼拝だけに固執し、教会の体制やビジョンをろくに考えず建物を大きくすることに先走ってしまう。「礼拝を守る」のではなく、キリストに向かっていく姿勢が必要。「ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。」

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

ピリピ3:13-14
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James

1ペテロ5:7-9

7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

神は私達をかえりみて下さる。神は私達を助けて下さる。なので思い煩いを全て神に委ね、私達は何もしなくてもいい。私達は戦う必要はない。神が戦って下さるのだから。本当にそうなのだろうか?

7節を暗唱聖句にして安心しているクリスチャンがいるが、実は7〜8節はつながっている。7節にあるおもいわずらいは本当にある、ほえたけるししのように、また全世界にいる兄弟たちが体験している苦しみと同じように、キリストとクリスチャンに対抗する敵は数多く存在する。もちろん、このおもいわずらいは神に委ねることができる。しかし、神に委ねると結果として私達は戦うようになる。おもいわずらいや不安を背負いながら戦うのではない。身を謹んで戦う。受動的ではなく、無関心ではなく、抵抗するクリスチャンとなる。

10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。11 語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。

1ペテロ4:10-11

神は賜物を与える。恵みが与えられたから私達は良き管理人でいなければならない。神から賜る力を与えられたので、私達は奉仕する。

12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

ピリピ2:12-13

「神が私達のうちに働きかけているなら、救いの達成に務める必要はない。」こう言っている人の内には神は働いていない。いわば、偽物のクリスチャンだ。

10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。

1コリント15:10

神の恵みは私達の内にあるのだろうか?ならば私達は罪と戦うはず。隣人を愛するはず。

10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

エペソ6:10-11

私達は主にあって強くなる。これは、私達が強くなるか、主に頼るかを選ぶことではない。主の内にあるから、私達は強くなる。悪魔に対抗して立ちうるために強くなる。

神は私達をかえりみて下さる。神は私達の為に戦ってくださる。神は私達のために強い砦でいて下さる。でもそれは私達を受動的にしない。無関心にしない。私達を戦えるように強くして下さる。その強さをもって悪魔に対抗するようになる。クリスチャン人生は身を慎み、目を覚まし、悪魔に抵抗する毎日である。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/are-you-a-passive-christian