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ユダ20-21

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ユダはクリスチャンが「信仰の上に自らを築き上げ」ることと、「聖霊によって祈る」ことが「神の愛の中に自らを保つ」方法だと語っている。祈りによって私たちは不信仰に陥ることを防ぎ、永遠の命に導かれる。これは私たちが何かをして自らを保つように読み取れるが、神が私たちを保っているのではなかったのか?(ピリピ1:6)

1 イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。
24 あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、25 すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。

確かに、1節によると私たちはイエス・キリストに守られている。24節でも私たちを「守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」について書かれている。この方は25節にある「わたしたち救主なる唯一の神・・・イエス・キリスト」。なので、私たちはたしかにイエス・キリストによって守られ、救いが確実なものとなっている。

しかし、21節では明らかに「自らを保つ」ことが進められている。これは何をいみしているのだろうか?一つ考えられることは、私たちの行い(ここでは祈り)は「恵みの手段」だということ。

神の決定的な働きは私たちの依存的な働きと関係している。神が全てを治めていて救いを確定させてくれることは確かだが、私たちの祈りはそれと密接に関係している。ローマ6:22-23でも、救いは神が成すことだが、「神に仕え、きよきに至る実を結ぶ」ことは私たちがやることだと確認できる。私たちの永遠の命が守られる(聖徒の永遠堅持)のは神がすること (ユダ1, 24)で、私たちもすること (ユダ21)。なので、「神が私たちの魂を確実に守っている」(1, 24節) から私たちは「神の愛の中に自らを保つ」(20節) 必要はないと考えないようにしたい。

つまり「恵みの手段」とはこういうこと。「恵み」によって神は私たちの魂を守り、霊的に成長させて喜びで満たして下さる。「恵みの手段」は私たちが「神の愛の中に自らを保つ」方法。神が私たちを守って下さるから、私たちが自らを保つよう励まされ、支えられる。神が守ることは決定的で、私たちが保つことは神に依存している。

ユダの手紙は、クリスチャンを永遠の命の中に留めることと、忍耐することが主な目的である。立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得する方法 (1テモテ6:12)。走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通す方法 (2テモテ4:7)。そして、最後まで耐え忍ぶ方法 (マルコ13:13) が記されている。忍耐は私たちがすること。信仰の土台の上に自分と隣人を建てあげる。祈る。そして神の愛の中に自らを保つ。

上記はジョイ・パイパーの提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/learning-to-pray-in-the-spirit-and-the-word-part-1 

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