1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
キリストの十字架によって、私たちは「神の子」と呼ばれるようになった。そして世の中が私たちのアイデンティティを理解できないのは、父なる神を知らないから。聖書の時代、子供は親によって知られていた。名前に「だれだれの子」をつけるぐらいだった。子供が誰だから知らない、ということは親が誰だか分からない、ということに結びついていた。クリスチャンは神の子なので、私たちの生き方や行動は父なる神の性質を表すものでなければならない。だから自らを清くすることに努力しようとするが、自分の力では完璧にならない。キリストがいつか再臨して私たちを完璧にさせて下さることに望みを置きつつ、日々キリストに習っていきたい。
4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
「罪を犯す者は、不法を行う者である。」私たちは不法を行うもの。そんな不法者のために、イエスは十字架で罪を取り除いて下さった。だから罪を犯し続けるのではなく、聖霊に罪を気付かされてそこから悔い改めるよう努力する。しかし、罪を認めず、罪を正当化し、神に立ち返らない者はイエスをしらない。つまり、その人はイエスを「知ったこともない者」で、そもそもクリスチャンではなかったことになる。
7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。
クリスチャンはどのように見分けることができるのか?
「義を行う者は義人である」クリスチャンは義を行う。神に対して、隣人に対して善い行いをする。自分と神だけを考えて、隣人をおろそかにしていないか?人の目を気にしすぎて、神との関係を深めることをおろそかにしていないか?クリスチャンであれば、神と隣人どちらにも義を行うようになる。
「罪を犯さない」もしくは、「罪を犯し続けない。」「神の種」、つまり聖霊が内に宿っているので、罪を犯したら必ず聖霊に罪悪感を植え付けられる。神が悲しむことを理解し、イエスの十字架に立ち返るようになる。
「兄弟を愛する者」愛にはいくつかの形がある。正しい方向に修正する愛があり、哀れみを持って相手を理解しようとする愛がある。自分が正しいことを押し付けるのは愛ではない。キリストが弟子たちと接したように、寄り添って同じ目線で会話し、その中で神の愛と神の求めることを示していきたい。