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Peter

1ペテロ2:9-25

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。

キリストは神であり、人である。(Hypostatic Union) 人として地上にいながら罪を犯すことはしなかった。また彼の口には偽り(=欺瞞、狡猾、裏切り)がなかった。世界の救世主としての期待を裏切らなかった。 ずるがしこく十字架にかかることを逃れなかった。私達の罪のために、たしかに十字架にかかり、死んで蘇った。

23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

ここがイエスのすごいところ。私達は、ののしられたら、ののしり返したくなる。やられたら、やり返したくなる。苦しめられたら、戦いたくなる。しかし、イエスはこのようなことをせず、「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねた。」私達の罪の裁きを十字架で背負った。そして、ののしりや苦しみを与えた人々に対して「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈った。ののしる人を憐れみ、赦しを願う姿勢。神の正しい裁きに委ねる姿勢。イエスの行動を真似するのはものすごく難しいが、クリスチャンと呼ばれるならイエスのようになるべき。

24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

私達はいやされた。義に生きるようにされた。もうさまよわないように、イエスという牧者を与えられた。なので私達は救われたところに立ち止まるのではなく、初歩的な学びに満足するのではなく、礼拝だけに留まるのではなく、リードして下さる牧者がいるので先に進みたい。

1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、2 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。3 神の許しを得て、そうすることにしよう。

ヘブル6
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1ペテロ2:1-8

4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

キリストは私達の罪のために十字架にかかり、死に、葬られた。しかし三日後に死からよみがえり、永遠に生きる教会の礎となった。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)。私達も「生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司」となった。私達は律法を守れない状況なので死しかなかったが、キリストが律法を成就してくださったので私達は生きる者となった。律法はキリスト者として生きるためのガイドだが、それを守らなければ罰を受けるわけではない。キリストによって、キリストを信じる者たちと結び合わされ、家族の一員とされた。ある教会のリーダーに認められたから家族の一員になるのではなく、キリストが成したことと、キリストに従う信仰によって家族の一員となる。クリスチャンとして私達はみな「祭司」であり、祈りを通して直接神と対話し、聖書を読んで直接神のみことばを知ることができ、それを伝える使命が与えられている。教会の一部の人間、その役割を担う人たちだけにこれが与えられているわけではない。

6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。

イエスはかしら石。律法でなく、人間のリーダーでなく、イエスにより頼む者は、「決して失望に終わることがない。」イエスは聖書を通して何を教えているか?どのような例を残してくれているのか?どのような使命を私達に与えているのか?それに焦点を当てて人生設計をすると、失望に終わることはない。かならず満たされた人生になるし、生き方を通して神の栄光を表す喜びを体験することができる。

7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。

逆に不信仰な人にとっては、すでに捨てたはずの石がかしら石とされたので、悔しい思いをする。律法を守るだけで十分。礼拝をしていれば十分。形の整った教会形成ができていれば十分。それが正解だと思って守ってきたが、聖書を読めばイエスの教えと一致しないことがわかる。むしろ、このような考えはイエスの根本的な教えと行動の意図を否定することになる。残念ながらリーダーがイエスに従わず、それを聖書から正す人がいなければ、教会全体がイエスに従わない方向に傾く。彼らにとってイエスが「つまづきの石、妨げの岩」となってしまう。こうならないためにも日々聖書を読むことと、イエスに従う生き方をベースに、教会を建て上げることが重要。

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1ペテロ1:10-25

13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

救いを疑わずに待ち望むためには、心の腰に帯を締め、身を慎む必要がある。別の訳では「警戒心と冷静さを持った心」とある。警戒しなければいけない理由は、偽預言者が羊の革をかぶっているから (マタイ7:15)。それを見分けるには彼らの実を見ればわかる。どのような家庭環境なのか、どのような子どもが育っているか、どのような人たちが教会に集っているか。また、聖書にかかれていることを理解し、冷静に判断することによって、間違った教えと大衆に流されないようにできる。

18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

イスラエルが先祖から受け継いできた生き方は「空疎」とされている。ユダヤ人の律法学者は聖書(torah)を読み込み適用を目的に新たなルールを見出し、それをtalmudにまとめてきた。それを礼拝の式典や人々の生活に強いるようになった。キリスト教も同じ傾向にある。元々キリストの内に喜び、互いを励ます交わりのような集まりだったのが、年月を重ねるうちに式典に重きをおくようになった。互いを愛し支えることが目的だった教会が、いつの間にか教会規則を会員に強いるようになり、守らない人は追い出すような形になった。「先祖伝来の空疎な生活」はユダヤ人に限らず、クリスチャンも陥ることがある。伝統でなく、聖書から真理を理解し、それにしがみつきたい (1テサロニケ5:21)。

22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

真理に従うことは、互いに心から熱く愛し合うこと。互いを裁くことでも、上から治めることでも、疑わず上に従うことでもない。愛するから真理に従うよう訴える。愛するから朽ちる種・枯れる草・散る花である人が作った伝統から立ち返るように説得する。「主の言葉は、とこしえに残る」人の作ったものより、残るものである神のみことばを学び蓄えたい。

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1ペテロ1:1-9

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

神はこの世が始まる前から私たちを選んでくださり (Unconditional Election = 無条件的選び)、選ばれた私たちがキリストの「血のそそぎを受ける」(Limited Atonement = 限定的贖罪)。神に選ばれ、イエスの十字架の犠牲によって、私たちの罪は赦され、神の子とされた。ゆえに「御霊のきよめにあずかっている」。キリストのようになるべく、私たちは日々聖霊に変えられている。

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。

イエスをよみがえらせた神が、私たちもよみがえらせた。アダムの罪のため、私たちは罪の影響を受けた状態で生まれてくる。これはどうしようもない状態で、誰もこの状態から逃れることはできない。私たちは死んだものとみなされていた。しかし、神の子であるイエスは人として罪の代価を支払って下さったので、私たちは罪がない者とみなされた。死んだ状態から生きた状態へと変えられている。

5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。

神が与えて下さったこの救いは、「終わりの時」まで守られている (Perseverance of the Sants = 聖徒の堅忍)。神が選び、信仰と救いに導いた人は、最後まで信仰に立ち続ける。それを可能にするのは「神の御力」。どんなことがあっても神は信仰を持ち続けるようにして下さる。私たちが神から逃れようとも、信仰を捨てようとしても、神は私たちの心に語りかけ、信仰を持ち続けるようにして下さる。それほどまで神は私たちのことを愛してくださり、真の喜びの道へ導いて下さる。

6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

試練は信仰をためす。それは火の中に投げ込まれるようだが、最終的に朽ちないものだけが残る。神に与えられた使命、聖書を通して教えられた真理、イエスに教えられた隣人愛。これらのように、イエス・キリストに対する「賛美とほまれ」につながるものが、試練を耐え抜く朽ちないもの。

8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

「輝きにみちた喜び」はどこからくるのか?「信仰の結果なるたましいの救い」から得られている。救いによって私たちはキリストの光を放つ。この輝きと喜びによって、周りの人たちは私たちを通してキリストを体験することができる。この体験が周りの人たちを神に導くきっかけとなる。クリスチャンだけで集まって「礼拝」をしているだけではこれができない。世の中でキリストの代表として生きることが、「たましいの救いを得る」ことにつながる。

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ヤコブ5:13-20

13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。

「あなたがたの中に」というのは教会=クリスチャンの集まりの中で、と考える。

「苦しんでいる者」に対して、祈るように促している。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」(詩篇46:1) どんなに辛い状況であっても、「兄弟よりも頼もしい友」(箴言18:24)がいて、私たちはいつでも祈りを通して神に頼ることができる。そして神に頼る姿勢が他の教会員の励みになる。

「喜んでいる者」に対して賛美するように促している。自分が良い状態であることにおごらず、神から与えられた賜物に感謝し、賛美を捧げる。自分の力で得たと考えていたら賛美にならない。神に与えられた、という前提で生きているなら必ず感謝の賛美を捧げるようになる。

「病んでいる者」に対して「教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらう」。長老の一つの役割は教会員の病のために祈ること。それは、祈られている人がわからない、隠れた場所で祈るのではなく、オリブ油を注ぐことができるほど密な場所で、その人のために祈ること。教会員を治める姿勢ではなく、教会員に仕える姿勢。時間をとって、犠牲を払ってその人のためになりそうな品を持ち、訪問して祈るほどの姿勢が長老には必要。

「互いに罪を告白し合い・・・いやされるようにお互いのために祈る」罪を告白し合うには信頼関係が必要。打ち明けたタイミングで「戒規」を言い渡されるようでは安全に話せる場は作れない。また、常に他人の間違いを探し出し、指摘するような行動も警戒しあう環境にしかならない。イエスが罪に対してどう対処したか?「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ8:7)  罪を犯す人は誰もいないので、人は罪を裁くことはできない。告白し合ったら罪が赦されたことを確認し、その罪悪感から癒やされるようにお互いのために祈る。そのような関係が教会の中では望ましい。

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ヤコブ5:7-12

7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

イエス・キリストは、今は天にある父の玉座の右側に座しているが、再臨の日が近づいている。キリストは、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」(黙示録6:10) と叫ぶ殉教者に答えるために「義を持って裁く」(黙示録19:11) 者として再臨する。これを待ち望んで、「アーメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20) と祈りながら、私たちは耐え忍ぶ。

9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。

どのように耐え忍ぶのか?「互いに不平を言い合わない」互いというのはクリスチャン同士と考えられる。互いを助け、互いに分け与え、みかえりを求めない。これを言葉で言うのは簡単だが、共に教会生活を送る中で、全ての事柄で意見が一致し、全く同じ考えに同意するようになることを求めていないだろうか?「仲間」だから反対意見は言わないと思い込んでいないだろうか?むしろ、「仲間」であれば正直に違いをあらわにし、違いの理解を深め合うことによって共通点を探ることができる。それが本当の「仲間」。何も言い合わなければ形だけの関係、心は通っていない。

10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。

苦しみを耐え忍ぶことについて、預言者たちが良い例。例えば、エレミヤは神のことばを忠実に語り、自分の民であるイスラエルのことを思って是正するように促していた。エレミヤは、神のことばを語ったら神に仕えているはずの祭司たちに殺されそうになった (エレミヤ26:7-9)。彼らに対して不都合なことが語られ、これまで正しいと思って行ってきたことが間違えだったと指摘されたからだ。それでもエレミヤは神のことばを語り続け、神に従う数少ない人たちに希望を与えた。

11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

エレミヤ29
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ヤコブ5:1-6

4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。

ヤコブの時代、労働者に賃金が支払われないことが頻繁に起きていた。それは、富んでいる人たちが自分たちの富をさらに増やすことに溺れ、労働者のことを考えず賃金を支払わずにいた。当時、労働者は弱い立場にいたので、賃金が支払われなくても何もできなかった。そういった弱い立場の人たちの「叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している」。叫び声といえば、カインとアベルのことを思い出す。

10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。

創世記4

カインは地を世話していて、アベルは羊の世話をしていた。この二人が神にいけにえを捧げたところ、神はアベルの捧げものの方が勝っているとした。これに嫉妬したカインはアベルを殺した。神がアベルにカインの居場所を問うと、カインは知らないととぼける。しかし神は全知全能で、すでに全てを知っていた。ここでも神は、殺された弱い立場のアベルの叫ぶ声に耳を傾けている。

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

ローマ12

神は、権力を悪用して弱い立場の人を虐げる人を嫌い、何も言えない、殺されたような弱い立場の人の声を聞いて下さる。そして、何もできない人が復讐を図らなくても、神はご自身の義によって報復して下さる。

15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

創世記4

同時に神は、虐げる側の人間に対しても赦しの道と、そこに向かう間の守りを与えて下さる。カインは復讐によって殺されないようにしるしを付けられた。まさに神は、虐げる者に対して、虐げられるものに対して、平等に愛していて必要なものを与えて下さる。だから、弱者であっても敵を愛するというチャレンジが課せられている。

45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

マタイ5

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ヤコブ4:11-17

11 兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。12 しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。

律法を規範として守ろうとするのは立派に見えるが、そのルールや派生する伝統的な考えに従わない人の悪口を言うことは、律法自体を裁く行為にあたる。これは教会のリーダーであっても同じ。裁きを下す前に、まず自分たちは潔白なのか?聖書に基づいて行動しているのか?しっかりと自分を吟味し、神のみこころを探った後に行動しなければならない。こう考えると、軽々と「戒規」という言葉を口にしないはず。そもそも、「立法者であり審判者であるかたは」イエス・キリストしかいない。

1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイ7

4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

ヨハネ8
15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

ルールや伝統を守るために他人を裁くのではなく、神のみこころを探り求めることが重要。作り上げたものを見て「すばらしい、これを守っていこう」と思うのは神に誇るのではなく自分の成した業に誇っている。「誇り高ぶって」いて、「このような高慢は、すべて悪である。」神のみこころを探り求める「善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

ローマ12

この世が推奨するようにルールを制定して、守らない人を排除する体制を作るのではなく、イエスが教えたように自分を吟味し、他人に対して心を広くして愛することを求めると、神のみこころが理解できるようになる。

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ヤコブ4:1-10

5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

クリスチャンの内には聖霊が宿っている。聖霊の一つの役割はクリスチャンを聖化に導くこと。それは肉の働き(不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽)から離れ、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)を求めるようになること (ガラテヤ5:19-26)。

6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

私たちは聖霊が宿っているから、自分の考えで「聖化」を求められる、と勘違いすることがある。自分の考えや力で完璧を求めようとすると、自分や周りの人に対して不必要なルールを強いるようになる。そのルールを守れているから他の人より優れていると思い込み、他人を裁くようになる。そのような人から神は「逃げ去る」。

守るべきルールより、御霊の実が備わっているか、という観点で考えると、どのクリスチャンもまだまだ足りないと理解できる。足りないから苦しみ、悲しみ、泣く。このへりくだった状態から、神は私たちに近づき、私たちを高くして下さる。

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ヤコブ3

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 ヤコブの手紙 3:1‭-‬2‭

多くの者が教師になってはならない理由が、厳しい裁きを受けるから。何故厳しい裁きを受けるのか?「多くのあやまちを犯すものである」から。特に「言葉の上であやまちのない人」となるべき。教師やリーダーが発する言葉は教会全体を影響する。特に講壇から語られる言葉は教会員が「神の言葉」と捉え、教えを吟味して正しさを確かめなければそれに惑わされる。

ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。 ヤコブの手紙 8‭-‬10 

「舌を制しうる人は、ひとりもいない。」完璧な人はいない。「さんびとのろい」が同じ口から出て来ることはよくある。日曜日の礼拝を厳守していながら、会議で他教会や考えの違った人たちを呪う。どんなリーダーであっても間違いは犯す。だから教会員は目を覚ましていなければならない。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 1ペテロ5:8
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 ヤコブの手紙 3:14‭-‬16 

「ねたみや党派心」によって人々の思いを一つにまとめ、「一致」をさせたかのように思えるが、考える力を蓄えていない人々に思想を押し付け、異なった考えを排除していくのは「真理にそむいている」。実はカルトも同じ手口を使う。これは「上から下ってきたもの」と思い込むのではなく、「悪魔的なもの」として注意しておきたい。

しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。 ヤコブの手紙 3:17‭-‬18 

「上からの知恵」がどのようなものかテストできるリスト。語られていることばは寛容なのか?様々な意見を語って、よく検討して結論に至っているか?ルールを守れない人に対してのあわれみは示されているか?考えは偏っていないか?こういう「上からの知恵」が本当の「純潔と平和と一致」を生み出す。