'なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 ' ヘブライ人への手紙 9:13-14
モーセ律法の規定により、イスラエルは動物のいけにえを捧げ、その血と灰を人々に振りかけることによって罪の赦しを得た。これを「身を清める」行為とされていたが、内面的な清めよりも、体を清めることに焦点を当てている。しかし、イエスの血によって私たちの良心 (正しさを判断する能力) が変えられ、私たちは「死んだ業」でなく「生ける神を礼拝するようにさせる」。この「礼拝」は「仕える」とも訳せる。つまり、私たちの良心が本当に変えられたのであれば、肉による行動をとおして神に仕えることに注力せず、生き生きとした形で神に日々仕えるようになる。日曜日の朝に儀式だけを行うことは「死んだ業」と変わらない。
'というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 ' ヘブライ人への手紙 9:19-22
なぜ「血」が必要だったのだろうかか?前提として、罪の報酬は死 (ローマ3:23)。そして、血を流さなければ罪の赦しはない。イエスはご自分の血によって私たちの罪を洗い流してくださった (黙示録1:5)。
'このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 ' ヘブライ人への手紙 9:23-24
モーセ律法、そして祭司の働きはすべて「天にあるものの写し」である。キリストはこれらの実体であり、これらに勝るいけにえである。十字架にかかり、罪を背負い、蘇り、天に登り、天にいる神の前に現れてくださった。大祭司が毎年行わなければいけない儀式を、イエスは一度の行動で成就した。そして今も私たちと父なる神の間に立ってとりなしてくださる (1テモテ2:5)。私たちが罪を侵したとき、神から離れようとしたとき、イエスは「あの人のために罪を贖った」と父なる神に取りなして下さる。
'また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 ' ヘブライ人への手紙 9:25-26
キリストは一度だけ十字架にかかり、それが全ての罪を赦すのに十分だった。大祭司がしたように何度もいけにえとして捧げられる必要はない。私たちの罪はすでにイエスに赦されている。罪を侵すたびに「戒規」という「罰」を受ける必要はないし、教会のリーダーの前で罪を打ち明けて赦してもらう必要もない。私たちはイエスが一度だけ成したことによって赦されている。
'また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。' ヘブライ人への手紙 9:27-28
人は一度死ぬことが定められている。裁きを受けることが定められている。しかし、キリストは罪の代価を支払ってくださり、信じることによって救われる道を与えてくださった。そしてイエスが二度目に来て全被造物に裁きを下すとき、私たちはその裁きから救われる。