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2テモテ1:8~18

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

キリスト者に与えられている聖霊はおくびょうの霊ではない。世の中の人は、真剣に神を礼拝し、信仰を保つキリスト者をあざ笑う。しかし、私達は真理を知り受け入れているので、自信を持って信じていることを宣言することができる。イエス・キリストは人の罪のために死んで蘇ったことは真実である (1テサ4:14, 2コリ5:14-15, 2テモテ1:10)。なので信仰に関して誰とも妥協する必要はないし、神を優先した力強い生き方をすることができる。同時に、希望について説明できるように準備しておく必要がある (1ペテロ3:15)。また、不必要なルールよりも隣人を愛ることができるように、聖書を通してイエスが教えていることを理解しておかなければならない。

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 テモテへの手紙二 1:11‭-‬12 新共同訳

パウロは宣教者、使徒、教師として任命され、それが理由で苦しみを受けていると書いている。信心深く生きようとするキリスト者も迫害を受ける (2テモテ3:12)。逆に、迫害を受けていないなら信心深く生きているか吟味しなければならない。パウロが神を信頼したほどに私達も神を信頼しているか。迫害を受けるほど証するクリスチャン人生を送っているか。神に委ねられている福音を述べ伝え、神の御国に貢献しているか。これらはキリストが成してくださった事に自信を持つことから始まる。

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2テモテ1:1~7

そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 テモテへの手紙二 1:6 新共同訳

パウロがテモテに手を置いたことによって何が起きたのか?パウロになにか特別な力があったのか?逆に、この手を置く行為がないとテモテは賜物を発揮できなかったのか?

テモテに手が置かれたのは1テモテ4:14に記録されている。パウロ一人が手を置いたのではなく、長老と共に手を置いている。その行為によって「賜物」が与えられている。この「賜物」は何を指しているのか?「霊的賜物」は神によって与えられる (ローマ12:3) ので、手を置く行為によって与えられることはない。手を置くことによって長老たちはテモテの霊的賜物と神のみこころを確認していると言える。神はすでに「牧会」や「リーダーシップ」の霊的賜物をテモテに与えていた。それを発揮する機会(賜物)が長老によって与えられたと言える。長老たちはテモテを伝道師(牧師)の働きに専念するよう取り分けている。

パウロと長老には特別な力はないし、テモテに特別な力を与えることもなかった。手を置く行為は神がすでにテモテに与えた賜物と召しを確認することである。また、信仰が確認されているキリスト者なら誰でも手を置いて同じことが行える。長老に留まらず、教会全体に互いの霊的賜物を確認し、神の召しを認識し合う義務がある。

神が一人の人を召され、牧師としての資格を与えられるとき、それはその人にも教会の他の人々にも明らかになります。牧師になる人は、1テモテ3:1-16とテトス1:5-9に記載されている資格を満たしており、みことばを伝えたいという切実な願いを持っています(1コリント9:16)。教会の長老たちは、信徒たちとともに、召しを認め、受け入れる義務があります。その後、強制ではありませんが、正式な任命式である聖職授与式を行うのが適切です。叙任式自体は、何か特別な力を与えるものではなく、単に神様が選んだ指導者を公に認めるものです。

https://www.gotquestions.org/ordination.html
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1テモテ6:11~21

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。 テモテへの手紙一 6:17‭-‬19 新共同訳

富は悪いことなのか?ヤコブでも、富んでいる者は「旅路の途中で消える」運命にあると書いている(ヤコブ1:11)。確かにいくら稼いでも足りなく、どれほどビジネスに成功しても終わりはない。ビジネスの世界でも、ビジネスはいずれ衰退するものだと広く理解されている。よく見ると、テモテの箇所では「不確かな富」に焦点を当てている。すべてを与えてくださる神に望みを置くように勧めている。そして富自体は悪いことではないようだ。「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる」ということは、富は楽しんで良いもだということがわかる。ただ、どのように楽しむかも言及されている。「善を行い、良い行いに冨み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」。冨は自分たちだけが楽しむ物ではなく、分け与えて楽しむ物だ。それも惜しまず、喜んで分け与えること。義務から献金することや、先輩だから義務としておごることはできる。しかし、喜んで分け与えたときのみ、本当の喜びと楽しみを体験することができる。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 ルカによる福音書 16:10‭-‬13 新共同訳

富は霊的なことに直結する。仕事においては小さな仕事(文章やメール作成、顧客名簿の管理)をこなすことができれば、より大きな仕事が回ってくる可能性がある。同じように、神は私達にこの世において一部の富を預けた。その富を使ってどのように御国に貢献するか試している。この世の富に仕え、富のために生きるようであれば、いくら頑張っても満足はしないだろう。価値のないものだから。富を使って御国に〜神に〜貢献すれば、価値あるものが任される。それは仕事でより大きな影響力が与えられ、世の光・地の塩として大きく貢献できることかもしれない。もしくは、同僚に証をする機会が多く与えられることかもしれない。価値ある仕事が任されるには、責任感をもって日毎仕事をこなし、聖書を読むことによって証する機会の準備をしておく必要がある (1ペテロ3:15)。

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1テモテ6:1~10

'もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。' テモテへの手紙一 6:6-10

「 金銭の欲は、すべての悪の根です。」では、金銭は求めない方が良いのか?よく聞かれる質問だが、まずこの箇所の背景から、どのような人にこの言葉が向けられているか確認しよう。

'異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者・・・精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者・・・ ' テモテへの手紙一 6:3,5

イエス・キリストの「神を愛し、隣人を愛する」ことを大前提として教え。人として罪を裁くのではなく、イエスに立ち返るように助ける。人と寄り添い、人のニーズに合わせた奉仕。へりくだり、他人よりも低くするリーダーシップ。そしてイエスが教えた全ての事を世界に教えるようにと発した大宣教命令。これらの教えに従わない者は「精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考え」ている。キリスト者=キリストに従う者とは言いづらい状況だ。

このような人たちに対して、信仰や金銭は利得を得るための道具でない、と教えている。言い換えてみれば、信仰や金銭は自分たちの為にあるものではない。自分たちだけ良ければ問題ない、ということではない。教会の予算と蓄えが増える時、それは何に使われているかを良く考えたい。自分たちだけの礼拝や礼拝堂のために使われているか?宣教にはどれほど予算を割いているか?経済的困難にある人を助けるためにどれほどの予算を割いているか?聖職者(牧師や退職した教師)を十分に支援しているか?会堂を考える前に、周りに十分なニーズが存在することを認識したい。それにどう答えるかがイエスが教えたことの中に方向性が見出せる。

本題の金銭を求めることの善悪に答えると、イエスの教えが前提にあるようだ。

'「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 ' マタイによる福音書 6:19-21

天に富を積む、ということは、永遠につながるような金銭管理をすること。イエスに仕えるかのように、隣人のニーズに答えるための富を積んでいるか (マタイ25:40)。大宣教命令を果たす宣教の働きに富を積んでいるか。一人ひとりが神に近づけるような取り組み(教育、書物、デボーション)に富を積んでいるか。会堂は老朽化する。会堂の中のモノは盗まれる。しかし、人々が主にあって成長することは永遠へとつながる。このために世の中で働き、金銭を永遠に繋げる働きにつぎ込むことが、善ある金銭の求め方である。

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1テモテ5

'年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、 前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。 その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。 既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。 ' テモテへの手紙一 5:11-15

初代教会ではやもめの経済的支援をするシステムがあった (3節)。その大前提にあるのは、やもめたちは「神の喜ばれること」、つまり子供や孫の世話をし、家族を大切にしていること (4節)。そして昼も夜も神により頼む生活をしている (5節)。このような人たちに支援をすべきだと書いている。同時に信者全員に対して、家庭を世話しない人は信者でない人に劣っていると警告している (8節)。この背景を踏まえて、どのようなやもめに支援すべきでないかが11~15節で書かれている。

「情欲にかられてキリストから離れる」「前にした約束を破った」夫と死別したやもめは再婚の可能性がある (ローマ7:3)。寂しさから、情欲から、キリスト者でない夫と結ばれることを臨み、結果的にキリストから離れることがある。キリストに従うと約束したことを破ることになる。特に男性のクリスチャンが少ない日本においてはこの可能性が高い。教会としてすべきことは、家庭を大切にできる体制や、神により頼む生活を送れるように支援することが望ましい。単に金銭的なサポートをするだけでは若いやもめの信仰成長を促さないし、逆に信仰の道から外れることを促進させてしまう可能性がある。

「家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。」この行動はやもめに限らない。未婚の人、家族の世話をおろそかにしている人にも同じ傾向がみられる。色々な事柄に首を突っ込み、少しでも怪しい情報があれば牧師に報告する。間違った情報を拡散して人間関係や雰囲気を悪くする。このような行動に陥るのは、家族を世話していないからだ。それは、ごはんを作っていないとか、金銭的サポートをしていないとかではない。霊的に世話をしていないことを指す。他人のミニストリーに口出しする暇があれば、自分の家族に福音を伝える方法を練る方が有効ではないか。他人の非難でなく、神に与えられた使命を全うすることに集中すべきではないか。(1テサロニケ5:12~13, ガラテヤ6:10)。

信仰、宗教、教会の大きな役割として「みなしごや、やもめ」を世話することがある。これをしない宗教や教会は聖書が教えるものと異なっている。教会の礼拝だけに注力した宗教は、心が伴わない宗教的行事だけになり下がってしまう。他人を思い、他人の世話を、教会として推奨した時に初めて神礼拝が生きたものとなっていく。

みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

ヤコブの手紙 1:27
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1テモテ4

'しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。 このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、 結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。 ' テモテへの手紙一 4:1-5

「惑わす霊と、悪霊どもの教え」とはどのような教えなのだろう?「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じる」のがここに書かれている例。しかし、食べ物は「真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになった」。「神がお造りになったものすべて(結婚含めて)は良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」。神が与えたものは全て良いもので、感謝して受け取ることができる。人は神の形に造られたので、神から与えられた創造力を働かせて作ったものも感謝して受け取ることができるとも言える。例えばお酒。適量であり、自制心が保たれるなら感謝して受け取れる。だるまの形をした消しゴム。だるまの形は偶像だという人もいるが、その消しゴムは祖父から頂いたもので、偶像でなく消しゴムとしてありがたく使うことができる。モノに罪はない。人がどう扱うかによって罪の対象となる。

'これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。 ' テモテへの手紙一 4:6-10

「献金に新札を使わなければならない。」
「聖書朗読は一つも言葉を間違わずにしなければならない。」
「礼拝のパワポは月~土毎日再確認し、日曜日に臨まなければならない。」

このような「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。」神が求めていない、必要以上な要求は「俗悪で愚にもつかない作り話」でしかない。このような外面的な要求でなく、礼拝において神のみこころを見出すことが重要。「体の鍛錬」である外面的要求を鍛えるより、「信心」を鍛える方が役に立つ。そのためには、みことばを読んで思いを巡らし、聖霊により頼むことを日々行わなければならない。結果的に「救い主である生ける神に希望を置く」ことができる。

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1テモテ3:11~16

行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 テモテへの手紙一 3:15 新共同訳

旧約聖書では、神は神殿に宿っていた。人々は神を礼拝するのに神殿に行く必要があった。しかし、新約では神は教会に宿っている。教会は一つの場所に建てられている建物ではない。「教会」とは「ekklesia」、「呼び出された者」。つまり、この世から呼び出されて神のもとに集められた人たち。教会は「建物」ではなく「人」。その人たちの内に神は宿っている。これを理解できれば自然と優先度が分かる。「契約」や「ルール」ではなく人が必要なことを考える。「建物」や「実務」ではなく、人の心に寄り添った働きが重要。

教会は「真理の柱であり土台」であるべき。福音を伝えることが真理だが、それを教会として行わない上に信徒が福音を伝えようとすることを阻害するのであれば、その教会はもはや真理に立っていない。神のみことばである聖書を学び、それを適用するのが真理だが、教会として「すでに学び終わっている」のを理由に人が書いた本に注力して聖書をひらかなくなると、その教会は真理に立っていない。真理に立っていないなら「教会」と呼べないとも、この箇所から捉えられる。

教会が真理の柱であり土台であることをやめたとき、私たちはその教会を捨てることができ、またそうすべきである。私たちの最大で第一の関心は、真理に対するものであるべき。

Matthew Henry’s Concise Commentary
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1テモテ3:1~10

'自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。 ' テモテへの手紙一 3:4-5

この箇所は「監督」、もしくは長老の要件について書かれているが、多くの教会で「長老」と名乗る人たちがこの部分で引っかかるようだ。「家庭をよく治め」とはどのような状態を指しているのか?子供はどのように育てる必要があるのか?配偶者との関係は?そして長老として教会に奉仕するわけだが、家庭とのバランスはどう保つ必要があるのか?

まず「治める」という言葉は「proistemi」が使われていて、いくつか意味がある。

  1. 前に置く、上に置く
  2. 統括する、監督する、司会する
  3. 守り、支え、養う
  4. 世話をする、注意を払う

つまり、家庭を「治める」ということは、家庭のリーダーとして家庭の方向性を定め、その方向に進むように家族を励まして行くこと。そのためには神が家族をどこに導いているかを理解しなければならない。家庭を危険から守り、家庭のために働き養う。神の方向性からそれないように、神に与えられた使命を全うできるように守り養う。常に家庭が良い状態であるように世話をし、注意を払う。そのためには家族と時間を過ごさなければならない。神中心の会話をしなければならない。

子供をどのように育てる必要があるのだろうか?「常に品位を保って子供たちを従順な者に育て」なければならない。まず品位を保つようにする。礼儀がなく、下品で、反抗する子供にならないように教える。礼拝に参加し、静かに座っていられるよう育てる。大人の人にはしっかりと答え、正しく尊敬を保つようにする。食事作法や身なりを整えること。そして親に対して反抗せず、聞き分けを良くする。この状態になるためには常に子供と時間を過ごし、教え込んでいく必要がある。また何故その状態であるべきか、何故その行動を取るべきかを理解してもらうことによって、子どもたち自信から考えて行動するようになる。そして親としての愛を子供に言葉と行動で示し、その愛に子供が答えられるような状態を作る。

若者を歩むべき道の初めに教育せよ。 年老いてもそこからそれることがないであろう。

箴言 22:6

もちろん、子育てにおいて配偶者の協力が不可欠。両親が共に神の方向性を見出し、手を取り合って家族をその方向に導く。互いはパートナーなのだから、互いを悪く言うことは避け、足りない部分は補い合っていく。旦那を「おじさん」と呼ぶのではなく、「夫・父」と呼ぶ。妻に対して「あれはだめだ、何も出来ない」というのではなく、「これが得意なのでやってもらいたい」と言う。日本の文化で身内のことを悪く言うのが一般的だが、これは夫婦関係において、子育てにおいて、家庭においてマイナスにしかならない。夫婦が互いの長所を立て、共に神の家族を築いていくことが聖書が教える家族構成だ。

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

エペソ人への手紙 5章 22, 25節

最後に、長老として教会に奉仕するわけだが、家族とのバランスはどうすれば良いのだろうか?ここまで来れば答えは明確だが、教会で奉仕する大前提として家庭を治めることがある。「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。」教会の奉仕が忙しすぎて夫婦関係が悪くなる。子供と向き合い会話する時間がない。教会員に指導に忙しすぎて自分の子供を指導できていない。家のことは妻に任せて教会の奉仕だけに専念する。家族を犠牲にして教会に奉仕する。ここまでくると教会の奉仕も、結局はこの世の仕事と変わらない状態だ。奉仕であっても、長老であっても、牧師であっても、神の計画の中核にある家族を第一にすることが義務であり、この家族が教会を立てあげる基礎となる。

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1テモテ2

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 テモテへの手紙一 2:1‭-‬4 新共同訳

神は、本当にすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでいるのか?ならば、何故全ての人が救われないのか?神の救いの選びとどう関係しているのか?

以下の考えはJohn Piper作のDoes God Desire All To Be Saved?から要約している。

まず、神が何かの事柄について望むと同時に拒絶することがある。最も大きな出来事としてイエスの十字架。神の子であるイエスが殺されることは許されないことだが、この救いの計画は神が意図したこと。もう一つは黙示録における戦い。悪魔とその手先が神に反乱を起こして戦いが生じる。神に対して反乱するのは罪だが、それが起きることを神は許している。もう一つはファラオの心が頑なにされたこと。イスラエルの民がエジプトから出るのを拒んだファラオだが、一時は心を入れ替えた。しかし、神がファラオの心を頑なにしたと書いてある。イスラエルがカナンの地に行くことが神の意思だったが、ファラオの心を頑なにしてそれを止めたのも神。

聖書からもう一つ考えられることは、時に神はご自身が認めない事柄を起こすこと。創世記20では、アビメレクがサラに対して罪を侵さないように神はアビメレクを抑制した。このように、罪を犯すことを抑制することも、罪を犯すことを許すことも、どちらも神の意思。

王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。 箴言 21章 1節

神の意思は全てを支配していて、この考えは昔からある (箴言16:1, 9, 33, 19:21, エレミヤ10:23, マタイ10:29)。災難や災害さえも神のコントロール下にある (イザヤ45:6-7, 哀歌3:37-38)。神の意思を探り、そのために生きることが良しとされている (1ペテロ2:15, 4:2)。迫害も神の意思の中にある (1ペテロ3:17, 4:19)。神が「許すなら」という生き方がキリスト者に求められている (使途18:21, 1コリ4:19, 16:7, へブル6:3, ヤコブ4:13-15)。神の意思が全てを支配していることによって、預言者がそうであったように (イザヤ46:9-1, 43:13, ダニエル4:35, ヨブ42:2, 詩編115:3)、私たちも神に絶対の自信と信頼を置くことができる 。

上記を踏まえて確認しておきたいポイントはまず、神は罪を容認しないこと (ヤコブ1:13)。悪い出来事を容認したとしても罪を侵すことはしていない。

ある行為が邪悪な行為であっても、そのような行為が実現することが良いことであると考えることは、何の矛盾もありません。例えば、キリストを十字架につけることは悪いことかもしれません。しかし、キリストを十字架にかけることが実現したのは良いことである。

ちなみにアルミニウスも同じ結論に至っている。

すべての人は、神がご自身の命令に違反することを妨げないことがあることを認めなければならない. . .

神は被造物の自由に任せることを望んでおられるので、罪を容認していると言えるかも知れない。もし妨げるなら被造物の自然な形と反するから。

神は絶対的に罪を意志するのではなく、自然の法則や自由な主体の性質を変えないために、罪を意志する。神は、ある特定の部分で卓越性に反することよりも、一般的な卓越性と秩序を意志する。

では、1テモテ2:4にあるように、全ての人が救われることを望むがそれが起きないのはどのような意味があるのか?一つの可能性は、神より大きな存在がいて、神のコントロール下にないことが起きてしまう事。これは改革派もアルミン派のどちらも信じていない。もう一つの可能性は、神は全ての人を救いたいと「願っている」こと。これなら、改革派もアルミン派も合意できる。「何故全員救われないのか」と聞かれたら、神は全ての人の救い以上に重要なことに神は専念していると、改革派もアルミン派も答える。この神の二つの意思については考えの違いはないが、神は何を重要視しているかについて違いはある。神は全ての人を救うことを重要視しているのか?(アルミン派) それとも神の栄光が怒りと寛容によって現わされていることなのか?(ローマ9:22-23)(改革派) 1テモテ2:4ではどちらの考えを容認も否定もしていないので難しい問題だ。

一つのたとえ話として、ジョージ・ワシントンが下した死刑の決断について。ジョン・アンドレーは国家を危機にもたらす行為をしたので死刑が下った。ワシントンはアンドレーのことを心から同情していて、死刑を免れるよう赦すこともできた。しかし、彼の知恵、責任感、愛国心、と道徳によってそれができなかった。

神に救おうとする[有効な]意志がないからといって、必ずしも同情心がないとは限らない。

ヨハネ3:16と1テモテ2:4から言えることは、神は世界を愛していて、全ての人に救われてほしいこと。同時に、神はこの世の礎から誰を救うか決めている。この時点で私たちが決めなければならないのは、神は人に自由意志を与えていてその決定に拘束されている(アルミン派)か、神が全ての人を救うことはご自身の主権と恵みによって拘束されているか(エペソ1:6, 12, 14; ローマ9:22-23)。この選択は哲学的な考えからでなく、聖書に書かれていることからしなければならない。

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1テモテ1:12~20

'「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 ' テモテへの手紙一 1:15-17

「わたしは、その罪人の中で最たる者です」パウロは新約聖書のほとんどを書いたほど、聖霊で満たされていた。パウロほど教会=キリスト者のことを思い、その人達のために見を削って神のみこころを伝えた人はいない。彼が「罪人の中で最たる者」なら、私達は何者だろう?自分が満足する礼拝式典が行われれば良い。自分に権限が与えられて教会の実務をこなすことができれば良い。これが神が望むことなのか?パウロが持っていた人に対しての思いからは学べることが多い。

キリストはどのように罪人と接したのか?

「限りない忍耐をお示しになり」戒規を言い渡すのではなく、忍耐を持って接する。それは赦すことかもしれないし、話し相手になることかもしれない。裁くことではない。

「命を得ようとしている人々の手本となる」命を得た人はどのように振る舞うべきか?まだ命を得ていない人はこれが分からないので、手本となる必要がある。例えば、喜びはあるか?礼拝賛美が葬式のようになっていては喜びを感じられない。キリストの蘇りを歌っているのに、また墓に戻っているような顔をして歌う人が目立つ。手本となるなら賛美で喜びを表したい。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

受け入れた人は自然と神を賛美したくなる。ルールや恐れで強制する必要はない。

「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」