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Hebrews Special Topics

救いをもたらす悔い改めが不可能になるのはいつか?

Source: When Is Saving Repentance Impossible? John Piper
Permission granted by Desiring God on June 23, 2023.

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

真剣でありながら、悲しくないこと

深刻になることと、悲しくなることには大きな違いがあります。悲しいの反対は幸せです。しかし、真剣の反対は口先だけの(あるいは冗談の)ことです。だから、真剣であることと、幸せであることは同時にできるのです。実際、C.S.ルイスは、「真剣になるような幸せと不思議がある」と言っています。コメディアンが感じさせてくれるものと、自分のために命を捨ててくれる友が感じさせてくれるものとの違いは、誰もが知っていることです。ディズニーワールドでの1日とグランドキャニオンでの1日の深い違いも、ほとんどの人が知っています。

ヘブル書は、私たちを真剣にさせる特別な方法を持っているように思います。とても身の引き締まる思いがする書です。悲しい書ではありません。しかし、真剣な書なのです。この書に書かれていることを聞けば、人生に対する口先だけの、陳腐な、つまらない態度は吹き飛んでしまいます。それは、私たちを悲しませるためではなく、神のもとで揺るぎなく幸せにするためです (ヘブル10:34、12:2、13:17参照)。

私たちを殺す幸福の種類

ヘブル書が私たちを心から幸せにする方法の一つは、偽りの安心に対する警告です。ある種の幸福は、私たちを殺すものです。ヘブル書は、この危険な幸福を暴き、その欺瞞から逃れ、決して失望させない確かな幸福を追い求めるようにと、執拗なまでの愛情をもって警告しています。つまり、ヘブル書は、神への保証の喜びを深め、強めるために書かれたものであり、その戦略のひとつは、偽りの保証やはかない喜びを暴くことにあります。

それが、ヘブル6:4~8に書かれていることです。この箇所では、悔い改めや救いを不可能にする霊的な状態があると言っています。そして、この状態は、いろいろな意味で救いのように見えるかもしれませんが、そうではない、と書かれています。そして、それは破滅へと導くのです。ですから、この箇所は、私たちの人生に宗教的な体験があっても、実が育たないのに、私たちが安全だと思い込まないようにという警告なのです。そして、この深刻な状況を示した理由は、私たちがそこから逃れ、確かな場所に文と炉まり、永続的な喜びに移行するためです。

思考の流れを見てみましょう。ヘブル6:1には、「成熟を目指して進もう」とあります。そして3節には、「神が許されるなら、先に進みましょう」とあります。つまり、私たちが生まれつきのプライドや反抗心、不信仰を克服する恵みを得られるかどうかは、最終的には神にかかっているのです。

さて、4節から8節は、悔い改めや成熟への押し進めが不可能な状況があることを示すことで、この神への全くの依存を説明しています。そして、不可能である以上、私たちはこのような状況に置かれることに戦慄し、3節の主権者である神に全く依存していることを確認する必要があります。

悔い改めが不可能なとき

悔い改めが不可能な状況とは、どのようなものなのでしょうか。それはこのように表現されています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

その状況とは、こうです: まず、ある人が大きな祝福を受け、高い宗教的体験をします (4-5節)。そして、第2に、その人が堕落し、そうすることによって、神の子を再び十字架につけ、公然の恥にさらすのです。そして、第3に、その人を悔い改めさせることは不可能なのです。

この3つの部分の状況を見てみましょう。

1. 大きな祝福と高い宗教体験がある (4~5節)

4つ挙げています。第1に、「光に照らされ」(4節) ています。第2に、天の賜物を味わい、聖霊にあずかるようになりました (4節)。天の賜物とは、おそらく聖霊のことでしょう。3つ目は、神の良い言葉を味わっています (5節)。そして、第4に、来るべき時代の力を味わっています (5節、ヘブル2:4参照)。

2. このような祝福と経験にもかかわらず、この人はその後、堕落してしまう (6節)

つまり、キリストと御霊とみことばと来るべき時代の力から遠ざかってしまうのです。彼は、これらの偉大な現実の価値に背を向け、心で他のものを追い求めるのです。この変化の影響は、キリストを再び十字架につけ、公然の恥にさらすことです (6節)。なぜそれがもう一度十字架にかけることなのでしょうか?このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることである理由は、少なくとも2つあります。

一つは、キリストが最初に十字架にかけられたのは、民を清く聖なるものにするためだったということです。そのために血を流されたのです。ヘブル13:12には、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあります。私たちを聖別するために死なれたのです。私たちを聖くして、ご自分のものとするために死なれたのです (ヘブル9:14、テトス2:14参照)。ですから、十字架がもたらす純粋さと聖さと献身に背を向けるとき、私たちは、最初に彼を十字架に釘付けにした不純さと世俗と不信仰を肯定しているのです。つまり、私たちは再び彼を十字架につけることになるのです。

このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることになる理由はもう一つあります。キリストに背く道を選び、この世の道や自分の意志の主権やこの世のはかない快楽に立ち返るとき、その人は事実上、これらはキリストの価値よりも価値があると言うのです。それらは、キリストの愛、キリストの知恵、キリストの力、そして神がキリストにおいて私たちのために約束してくださるすべてのものよりも価値があると言っているのです。そしてそれは、「私はイエスを十字架につけた人たちに同意する」と言っているのと同じことなのです。なぜなら、キリストの善意と知恵と力を味わい、それでも「いや、もっと良いもの、もっと望まれるものがある」と言うことは、それほどまでにキリストを辱める行為だからです。それはキリストを公衆の面前で辱めることにもなります。

信仰がない人がキリストに抵抗するのは、ある意味当たり前です。しかし、教会で啓発され、天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、神の良い言葉と来るべき時代の力を味わった人が、それらの祝福と経験の後に、「キリストよりも世の中のものの方が良いと思います」と言うのは、別のことです。それはイエスをもう一度十字架にかけることであり、真理を味わったことのない部外者ができる以上に、イエスを公の恥にさらすことなのです。

3. その結果、「(そのような人を)再び悔い改めさせることは不可能である」(6節) という結論に至った

先週、ヘブル12:16〜17にかけて、このことを説明しました。そこでは、ここと同じような警告が語られています。

また、誰も、一杯の食物と引き換えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

ヘブル12:16〜17

本物の悔い改めは神に拒絶されるのでしょうか?エサウが純粋に悔い改めたのに、神に拒絶されたと勘違いしないでください。神は純粋な悔い改めを拒否されることはありません。本文には、「悔い改めの機会が残っていませんでした」とはっきり書かれています。言い換えれば、彼は悔い改めることができなかったのです。ヘブル3:8、15;4:7参照)彼は、自分の人生をより良くするために叫びましたが、内心は神様の条件に従おうとはしませんでした。彼は16節にあるように、「淫らで俗悪な者」だったのです。

エサウは、ヘブル6:6で筆者がこの人を再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だと言っていることの例証です。ここに、本書のすべての警告の背後にある恐ろしい見通しがあるのです。だから、漂流するのではなく、耳を傾けてイエスを考え、毎日励まし合い、不信仰と油断を恐れるようにと言っています。なぜでしょうか?本当に何か危ういのでしょうか?自分が選ばれ、召され、義とされていると信じているあなたや私が、無関心と頑なになる緩やかなプロセスに滑り込み、やがて堕落してキリストを拒絶し、公然と辱めるかもしれないという見通しがあるのです。私たちは、神から完全に見捨てられたのだから、もう戻れないというところまで来てしまうかもしれない。それが6節の「不可能」という言葉の意味です。今朝は、憐れみの追求を急がなければなりませんね!

「キリストにあずかる者」でありながら、義とされないことがあるのか?

さて、ここで皆が疑問に思うのは、堕落した人が本当に「救われた」、「義とされた」、「召された」、「新しく生まれた」かどうかということです。聖霊と神の言葉と来るべき時代の力を味わい、それにあずかる者でありながら、義とされないことがあるのでしょうか。つまり、この節は、本当に救われた人としての立場を失う可能性があると教えているのでしょうか。それとも、4節と5節にあるような体験をしても、救われたとは言えないと教えているのでしょうか。どちらの教えも衝撃的で、心が痛むものです。どちらが正しいのでしょうか?

この聖句の深刻さと警告を弱めることなく、私は、これらの祝福と経験をすべて持っていても、義とされず、新しく生まれず、救われないことは可能であると主張したいのです。その理由は5つだけ挙げますが、すべてヘブル人への手紙から取ったものです。また、ヘブル人への手紙以外にもたくさんあります (ローマ8:29-39、ユダ24-25、エペソ1:3-14、1ヨハネ2:19、1ペテロ1:5、フィリピ1:6、2:13、1コリント1:8-9、1テサロニケ5:23-24、エゼキエル11:19、36:27、申命記30:6、エレミア24:7、32:40)。

1. 7-8節を考えてみましょう

ここでは、離反する者たちの状況が絵に描いたように語られています。6節で背信者には悔い改めが不可能であることを述べた後、7-8節にはこう書かれています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。

ここは、生命と植物があったのに、それを失った畑を描いているのではないのです。一つは実り豊かで祝福された畑、もう一つは不毛で呪われた畑なのです。つまり、光と御霊とみことばと神の働きが私たちにやってきて、私たちを祝福し、ある程度形にしてくれているのに、それに背を向けて教会に座っていたら、私たちは植物のない畑と同じで、裁きを受けることになるのです。私たちが飲んだ雨(光、御霊、みことば、力)は、畑に何の生命も生まなかったのです。

2. 9節を考えてみましょう

教会の中に背信を犯す者がいる可能性を現実のものとした上で、こう書かれています。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

キーワードは 「救いにつながること」です。パウロが確信している「もっと良いこと」とは、常に救いとともにあるもの (文字通り、救いが持っているもの) です。救いに属するものなのです。つまり、彼が言っているのは、彼らが本当に「救われている」と信じているからこそ、背信を犯したり、不毛な畑になったりしない、ということなのです。彼らは実を結びます。堕落することはありません。「救いにつながること」という表現は、筆者が本当に彼らに救いがあると信じていて、それゆえに救いに必ずつながること、つまり忍耐強い信仰と実を結ぶことを信じていることを示しています。彼は、実を結ばないことや背信が救いに伴うとは考えていなません。もっと良いものがあるのです。

3. ヘブル3:14(と3:6)を考えてみましょう

私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

ここで重要なのは、「私たちはキリストにあずかる者となっている」という動詞の時制です。私たちが 「これからキリストにあずかるものとなる」のではなく、「キリストにあずかる者となった」のでもなく、「キリストにあずかるものとなっているー確信をを持ち続けるなら」です。つまり、信仰の忍耐は、私たちがキリストにあずかる者となったことを証明するものです。つまり、もし私たちが信仰に耐えられないなら、それは私たちがキリストにあずかる者から脱落したことを示すのではなく、私たちがキリストにあずかる者になることはなかったことを示すのです。もし私たちが確証を堅持するならば、私たちはキリストにあずかる者となります。もし堅持せずに背信をするならば (ヘブル6:6が述べているように)、私たちはキリストにあずかる者とならなかったのです (ヘブル3:6の動詞の時制についても同じことが言えます)。 したがって、この著者は、私たちがキリストの中にいて、再び出て行くことができるとは考えていないことは明らかです。

4. ヘブル10:14を考えてみましょう

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

もしヘブル6:6が、キリストの血によって義とされたのに、神とのその立場を失うことがあるという意味なら、この節は意味がありません。この節は、今聖化されている人 (つまり、今聖霊が内に住んでいて、神から生まれ、信仰によって聖さを増している人) にとって、十字架上のキリストの犠牲は、その人を永遠に完全なものとしたと言っています。永遠にです!言い換えれば十字架上のキリストの完成された、義認の働きを受け取ることは、神の目には完成された者となる、ということです。この現実は、ヘブル6:6が、キリストをもう一度十字架につける人々が、かつてイエスの血によって本当に義とされ、内なる霊的な意味で本当に聖別されていたことを意味しないことを示唆しています。

5. ヘブル13:20~21を考えてみましょう

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世よ限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

20節では、イエスの血によって証印された永遠の契約について語られています。それが、本書が8章と9章で大きく取り上げた新しい契約です。新しい契約とは、神が私たちの中に新しい心を入れ、私たちが神の道に歩み、私たちに良いことをすることから目をそらさないようにしてくださるという約束です (エゼキエル11:19、36:27、エレミヤ24:7、32:40)。ですから、21節では、私たちが信仰を持ち続けて実を結ぶかどうかは、最終的には私たち次第ではない、と言っています。それは、最終的に神様に依存しているのです: 神は、ご自分のみこころにかなうことを私たちのうちに働かせてくださるのです。神は、私たちを守るために新しい契約を果たしておられるのです。

このことは、もし新しい契約の元で本当に義と認められた人が、背信を犯して拒絶されることを意味するならば、ヘブル6:6が新しい契約と矛盾することになります。それは、神が「みこころにかなうことを・・・渡したちのうちに行ってくださる」という約束を果たさなかったということになります。神は新しい契約を破ったことになるのです。

以上の5つの理由から、私は、もし人が堕落して神の子を再び十字架につけたなら、その人は元々義とされていなかったと結論付けます。その人の信仰は、救いをもたらすような信仰ではなかったのです。

では、これらの御言葉は私たちにとって何を意味するのでしょうか

鋭い指摘をするために、非常に個人的なことを言います。もし今後数年の間に私が背信を犯し、キリストから離れたとしても、それは私が神の言葉や神の霊や神の奇跡を味わったことがないからではありません。私は神の言葉を飲みました。御霊は私に触れました。私は神の奇跡を見てきたし、私は神の道具となってきました。

しかし、もし今後10年、20年の間に、ジョン・パイパーが霊的に冷め始め、霊的なことに興味を失い、金儲けとキリストのいない本を書くことに夢中になってしまったらー新しい妻は爽快で、子供たちは自立でき、キリストの教会は足手まといで、受肉は神話だと信じ、人生は一つだから食べて飲んで陽気になろうという嘘を買ってしまったらーそうなったら真実はこうだということを知っておいてください: ジョン・パイパーは、人生の最初の50年間、大いに欺かれていたのです。

彼の信仰は、父親の喜びの名残であり、異質なものだった。妻への貞節は一時的な情熱であり、社会的な圧力に従ったものでった。彼の父性は自然な本能のなせる業であった。彼の説教は、言葉と会衆への愛に駆られていた。彼の執筆は、名声への愛に満ちていた。そして、彼の祈りは、最も深い妄想であり、自分の虚栄心を神に供給してもらおうとする試みであった。

この可能性が、永遠の喜びを追い求める私を真剣に、そして警戒させないのであれば、何がそうさせるでしょうか?

この素晴らしい真理の実践的な結論は、来週の聖句で示されます。それまで、キリストがあなたの最高の喜びであるかどうか、口先だけでなく、真剣に考えることができるように祈ります。もし、あなたが本当にキリストに、キリスト内に希望を託すなら、キリストはあなたを手放さないでしょう。

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Ecclesiastes Special Topics

伝道者の書4:2-3

2 それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。3 しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

伝道者の書4:2-3

この箇所を読んで、生まれてくる赤ちゃんの人生を考えると、障害をもったり、貧しい環境や、片親しかいない家庭では、この子供が生まれても不幸になるだけだから中絶を選ぶ人がいる。これは正しいのだろうか?

まず、伝道者の書は絶望に陥っている人の言葉として書かれている。信仰に生きる人ではない。この世に希望を持とうとしたが結果として望みがないことを悟っている。聖書にはこのように、神に動かされて書き記されているが、そのまま受け取るべきでない内容が含まれている。ヨブ記もそうだが、書の一部を取り上げるだけでは結論をないがしろにしてしまう。伝道者の書の結論は最後の12章に書かれているので、これを確認した上で4章の内容を考えるべき。

13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

伝道者の書12:13-14

たとえこの箇所が中絶をサポートするように捉えたとしても、殺人を許すことにはならない。子供に対して罪が侵されるかもしれないので、罪を犯してまでその子の人生を止めるべきではない。いつかこの子供が誰かに殺されるから、先に殺す理由にはならない。私達は神ではない。

クリスチャンとして考えるべきことは、このような環境に生まれてくる子供を無くすことではなく、どのようにして、このような環境下に置かれている人たちに関わって助けられるかを考えるべき。障害を持つ子供に対して理解を深め支援すること。貧しい環境にいる家庭には、特に教会を通してどう援助できるか。片親しかいない家庭に対して教会や自宅の場を提供したり、共に育てることを考える。これが「清く汚れのない信心(宗教・信仰)」。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヤコブ1:27
上記の内容はジョン・パイパーが提供しているサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/what-would-you-say-to-someone-who-uses-ecclesiastes-to-say-that-abortion-is-a-better-alternative-than-the-life-awaiting-some-babies

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Special Topics

聖書の物語に意味を見出すには?

聖書は様々な形で私たちに神からのメッセージを伝えているが、文体によってはメッセージを見出すのが難しい場合がある。その一つは聖書に多く含まれいる物語だ。では、どのようにして聖書の物語に意味を見出すことができるだろうか?

重要なのは、筆者の意図を探ること。筆者はどのような背景で、どのような状態で、誰に対して何を伝えていて、何故それを伝えていたのだろうか。それを探らず呼んでしまうと、神のメッセージを見出すのが難しくなってしまう。イエスもパリサイ人に対して、彼らは聖書の読み方を理解していないと指摘した。「読んだことがないのか」と何度も指摘している (マタイ12:4, 19:4, 22:31)。

また、筆者の意図を知るためのヒントを与えているので、それを探ることも助けになる。物語に含まれるヒントは、繰り返される言葉、物事が起きる順番、対話の内容、特定の事象の影響、筆者による解釈の挿入、などがある。

創世記37~50の例

創世記37~50を例として取り上げる。

この章の主な意図は次の箇所に記されている。

7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。

創世記45:7-8

20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。

創世記50:20

つまり、主な意図は、神の民の罪深さや神の民に対する人間の罪深さは、神の救いの計画を妨げないばかりか、神の救いの計画を前進させるということ。

ヒント1

この意図につながるヒントは少なくとも2つ提供されている。一つのヒントは次の箇所に記されている。

3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。

創世記39:3

21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。

創世記39:21

ヨセフの状況はどんどん悪化していくが、この中に物語のヒントが含まれている。状況が悪くなったのはヨセフの罪のせいではない。彼がこの悪い状況を作り出しているのではない。神に見放されたのではない。全ては神の隠れた目的のために起こされた出来事である。

ヒント2

次のヒントは創世記38に記されているが、この話がヨセフの物語の真ん中に挟まれているのは不思議に感じる。この章ではヨセフの兄であるユダが、売春婦と勘違いして義理の娘を妊娠させた話が記されている。何故この話がヨセフの物語に挿入されているのか?モーセは何の意図をもってこのヒントを与えたのだろうか?

一つ考えられることは、ヨセフの義をより鮮明にするために挿入されていること。ヨセフは主人であるパテパルの妻に言い寄られたときに断り続けた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。

ユダの罪深い不貞行為と、ヨセフの義なる行動は明らかに対照的で、モーセはこの39章を挿入することによってヨセフが神に認められていることをはっきりとさせている。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているAsk Pastor Johnシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/how-do-you-find-meaning-in-the-bibles-narratives
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Hebrews Special Topics

ヘブル1:10~14

13神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。 14天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。へブル1:10~14

聖書には天使の話がいくつかあるが、天使の存在はどのように体感できるのだろうか?天使は私たちの為に何をしてくれるのだろう?天使の行動から私たちは何を学べるだろう?こんなことを考えてみた。

天使の存在を体感

天使が存在することは聖書を読めば明らか。しかし、普段私たちは「天使」という存在を意識していない。どのように天使の存在を体感できるだろうか?一つは、他人をもてなすこと。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とある。天使は神の使いとして、かつてアブラハムがそうしたように、もてなすに相応しい存在である。同じように、私たちは他人をもてなすことによって、天使をもてなす体感をすることができる。もう一つは、エペソ6:12の言葉を忘れないこと。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」物質世界の戦いだけに注力せず、霊的世界の戦いに注目し、悪魔や罪と戦って行くことも、天使を体感する方法。

天使がしてくれること

天使は罪がない存在なため、「救い」という概念を理解していない (1ペテロ1:12)。しかし、一人の人が救われ、神の家族に加えられた時、天使たち全員が祝う (ルカ15:7)。私たちは、救われた人、その事実を象徴する洗礼を受ける人を見た時、どのように反応するだろうか?礼拝の「秩序」を気にして、静かに見守るだけだろうか?それとも、立ち上がって拍手し、大声で神を賛美するだろうか?天使たちは後者の方で、喜びをあらわにし、救われた人の価値を示してくれている。また、天使たちはパウロにしたように励ましの言葉を与える (使途27:23-24)。実際の必要(食料など)を与えることもあるし (1列王記9:3-8)、危機から救ってくれることもある (使途12:6-10)。そして、人が生涯を終える時、天使たちがその人を神の元に連れて行ってくれる (ルカ16:22)。

天使から学べる事

天使たちは神を賛美するために創られた (詩編148)。神に仕えるために創られた。私たちは日々の生活で神を賛美し、喜んで仕えているか?これは日曜礼拝の場だけの出来事ではない。会社で、学校で、家庭の中で、私たちは神を賛美し、神に仕えるようにしなければならない。また、天使は神のみことばを伝達する役割を担っている (ヘブル2:2)。私たちは聖書を読んで理解し、自分のものとした後、他人に伝えているか?天使たちほど神の言葉を忠実に伝る人間はいないだろう。人として天使たちを見習いたい。

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Philemon Special Topics

ピレモンと宣教師

ピレモンへの手紙では、パウロの働きにピレモンへ参画するように促した。このことから教会生活への参画の必要性や、宣教師の教会での振る舞いなどが読み取れるのだろうか?そもそも、宣教師としての振る舞いはどうあるべきか?神に遣わされる宣教師と霊的賜物は、どのような関係があるのか?宣教師を受け入れる教会はどのような姿勢をとるべきか?このようなことを考えてみた。

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オネシモと教会戒規

「パウロはオネシモがビクビクせず生きられるように、ピレモンから損害に対する赦しと奴隷からの開放が必要だった。」果たしてそうなのか?パウロはオネシモの罪に対して追求していたのだろうか?ピレモンはオネシモの罪に対しての扱いをどう理解していたのだろうか?罪を厳しく扱う視点から、この箇所は教会戒規と関係あるのか?教会戒規はどうあるべきなのか?

こんなことを考えてみた。

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みことばの扱いとCS(日曜学校)について

「みことばが語られ、朗読されるのは礼拝でしかない。それをサポートするのはCSの学びである。」

この言葉の背景には、聖職者(牧師)しかみことばを扱えない、という考えがある。神学校に行き、教団の教師試験に合格し、按手を受けた者のみがみことばを扱える。つまり、教会においては牧師だけがみことばを読んで解釈し、その解釈を教会員に教える事ができる。その教える場が礼拝の説教であり、CS(日曜学校)は説教を理解するために必要な基礎知識や、説教についての分かち合いをする場としている。

この考えに対して聖書はどう教えているのだろうか?

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テトスへの手紙の趣旨、教会と宣教、みことばを語れる人

テトス書は個人に宛てた手紙なので、宣教は教会全体へ委ねられたのではなく、個人に委ねられたのか?みことばは牧師として召されないと語れないのか?こんなことを考えてみた。

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十一献金について

「十一献金は当たり前」「十一献金は教会の基本である」このような言葉を教会で聞くことがある。献金袋の項目にも十一献金が第一に書かれていて、その項目だけに月が書かれている。要は、毎月必ず捧げるべきだと推奨されているからだ。多くの人はこれを深く考えずに十一献金に献金しているが、果たしてそれで良いのか?十一献金とは何なのか?何故当たり前だと思うのか?これは本当に聖書が新約の教会に命じていることなのか?こんなことをを考えてみた。

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教会戒規って何だろう?

「レビ人の祭司は裁く立場にあり、それは現代の警察・司法と一致する。また、教会においては神の前にも問われることがあり、これは教会戒規である。」果たして、教会戒規は裁きなのだろうか?教会戒規はどのように行うべきだろうか?戒規にかけられた人はどう扱うべきなのだろうか?こんなことを考えてみた。