十一献金について

「十一献金は当たり前」「十一献金は教会の基本である」このような言葉を教会で聞くことがある。献金袋の項目にも十一献金が第一に書かれていて、その項目だけに月が書かれている。要は、毎月必ず捧げるべきだと推奨されているからだ。多くの人はこれを深く考えずに十一献金に献金しているが、果たしてそれで良いのか?十一献金とは何なのか?何故当たり前だと思うのか?これは本当に聖書が新約の教会に命じていることなのか?こんなことをを考えてみた。

旧約聖書で命じられている「十一献金」

地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。

レビ27:30

十一献金はイスラエルに課せられた律法の一部であり、農作物や家畜の十分の一を神に捧げる必要があった。また、これとは別にレビ族の生活を支えるために十分の一を捧げていた。(民数記18:21) さらに、貧しい人たちを支えるためにも捧げていて、全ての捧げものを合計すると収入の約23%を捧げていたと考えられる。

よく教会で十一献金の勧めとして引用されているマラキ書を確認しよう。

あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。 〜万軍の主は言われる〜 わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。

マラキ3:9〜10

十一献金を捧げていないと神から盗んでいる。また捧げるのであれば神に祝福される。このような教えが教会でされている。しかし、この箇所が誰が、誰に、何のために向けられた言葉かを考える必要がある。これはイスラエルに向けられた言葉で、宮で礼拝する際に十一献金を捧げていないことを問題としている。なので、神は不作という裁きをイスラエルに下している。イスラエルのことであって教会のことは一言も書かれておらず、これを新約の教会に直接当てはめるのは文脈としては無理がある。

新約聖書で教えられている「献金」

では、新約聖書では献金をどのように教えているだろうか?

ここでもよく教会で引用されている箇所を確認しよう。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

マタイ23:23

これは新約聖書にかかれているし、イエスが教えていることだから新約の教会も十一献金をすべきだ、と教える人たちがいる。しかし、ここも聖書を読む大前提であるルールを覚えなければならない。誰が、誰に向けて、どのような意図でこの箇所が書かれているか。イエスが地上にいた時代はまだ教会はない。イエスと弟子たちはユダヤ人として生まれ、ユダヤ人として生きていた。もちろん、その律法にも従っていたので十一献金は必須であった。また、イエスはパリサイ人、つまりユダヤ人に向けてこの言葉を語っている。つまり、お互いイスラエルの律法の下にいる人々として、十一献金をする必要があるが、それ以上に「正義とあわれみと誠実」を大事にする必要があるとイエスは言っている。なので、これは教会に対しての教えにはならない。

そもそも、十一献金を含める律法はキリストによって成就されていて(マタイ5:17)、初代教会も異邦人に律法を押し付けるべきではないと結論付けている(使徒15:19〜20)。また、キリスト者はもはや律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので律法に縛られることなく、キリストにある神の子として生きる自由が与えられている。(ローマ6:14〜15、ガラテヤ3:15〜4:7)。この自由によって私たちは神との直接的な関係を持つことができ、律法なくとも日々神の姿に変えられている(2コリント3:4〜18)。

これらを前提に、新約聖書にある献金についての箇所を確認しよう。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。

2コリント8:5

そもそも献金は献身であり、現代の私たちにとって最も大事な一部を捧げていることになる。これはローマ12:1にあるように「聖なる生きた献げもの」を連想する。形だけで献金カードに記入し、献金袋に収入の10%を入れているだけだと心を献げたことにはならない。この献金は本当に神を愛しているから捧げるのか?神の導きに従う覚悟で献金しているのか?日々の生活において神のみこころを探っているのか?このような問が自分自身を捧げる献金に含まれている。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださるのです。

2コリント9:7

頑張って10%を生活からひねり出していないか?教会のリーダーに指摘されるのが嫌だから仕方なく献金しているのか?もしこのような態度で献金しているのであればむしろしない方が良いかもしれない。しかし、そこで考えなければならないのは、そもそもキリスト者であれば神を愛するのでその働きを支えたいし、隣人を愛しているから困った人を助けたいはず。もしこのような心がなく、喜んで支えることができないならキリスト者としての生き方を考え直すべきである。喜んで捧げるならば項目として「十一献金」よりは「感謝献金」のほうがキリスト教会の献金に相応しいと思われる。

私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。

1コリント16:2

文脈として、これはパウロがコリント教会に対して、エルサレムに持っていく献金を予め集めて置くように指示している。どのようなパターンで献金が捧げられていたか見受けられる。初代教会では週の初め、すなわち日曜日に献金を集める習慣になっていた。ただ、礼拝中に献金を集める必要があるとは書いていないし、「集める」という定義を広く捉えれば現金(ましては新札)でなくても当時はなかった銀行振込という方法も可と考えられる。ポイントとしては教会として毎週集めること。また収入に応じた額であることが明記されている。

献金の目的としては隣人を愛する一環として貧しい人を助けること(1テモテ6:18)と、聖職者を支える事(1コリント9:7〜12)が書かれている。聖職者は100%献金によって支えられるべきだし、副業をしないと生活が成り立たない状態はありえないことである。

いくら捧げるべきか?

これに答える前に前提として詩篇の箇所を確認しよう。

地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの

詩篇24:1

そもそも、すべてのものは神のものである。私たちが働いて得たと思える給料は神のものだし、そもそもその仕事を与えて下さったのも神。また、働くことができるくらい健康であるのも神の恵みである。これを前提にいくら捧げるべきかを考えると、そもそも全てが神のものであるので全てを捧げてもおかしくない。実際、初代教会では全てを売って教会を助ける動きが見られる(使徒4:34〜37)。

ただ、全て捧げて生活が成り立たなくなるのも聖書を読むと違うことがわかる。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るようにしなさい。

1テモテ6:17〜19

直接書かれてはいないが、神は私たちに富の良き管理者となることが促されている。この箇所だと富を楽しむ事が許されていると同時に、施しや分け与えが推奨されている。また、富を通して御国を土台を築くことも書かれている。これはマタイ6:19〜21に書かれている「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」を連想する。また、自分の家族を養う(1テモテ5:8)ことも良き管理者である一環でもある。

ガイドラインとして10%と教えるのは正しいか?

ここまで読んでいれば分かると思うが、そもそも新約の教会において10%という定義は無意味である。この数字を誰かに教えるということは、聖書に書かれていないルールを教えることになる。もちろんルールを教えてそれを守って貰うのは簡単なのだが、この教え方は聖書が求めている献金の形を無視している。自分自身を献げ、喜んで献げることが大前提なので、これを教えていかないと10%だけを守る形だけのキリスト者が出来上がってしまう。教える側もこれで終わりなら無責任である。

イエスは私たちに弟子を作るように命じている。弟子を作るのはルールを教えることではなく、行動や生活をともにし、心からの会話をしながらキリスト者としての生き方を分かち合うことである。これはルールを教えるより時間がかかるし難しいことではあるが、本当にキリスト者として成長して欲しいなら責任をもってイエスのような弟子訓練に励むべきである。

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