教会戒規って何だろう?

教会と教会員

戒規を語るときの大前提が教会員の考えである。教会員の定義を理解するには、まずキリスト者とはどのような者かを理解する必要がある。キリスト者とは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦された者である。(エペソ2:8〜9) また、聖霊がキリスト者の内に住むようになり、聖化への道のりを歩むようになる。(2コリ3:18) この人がキリスト者だということを承認するのが教会の一つの働き(鍵)である。また教会はその承認と教会員自信に責任を持ち、弟子訓練を行っていく。教会員は教会が福音を語る限り監督されることを受け入れる。これが教会員になるということである。この観点から教会は教会員に対して聖化を期待し、キリストを代表するように監督する責任がある。これは教会員を監視し、罪を発見したら真っ先に指摘することではない。キリスト者がイエス・キリストの代表者としてふさわしく生きることを促すことである。

イエスが語る教会戒規

もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れていきなさい。二人または三人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

マタイ18:15〜20

この聖書箇所によると、戒規には段階があるのが分かる。まず一対一で罪を犯した人と話をする。もちろん、指摘する理由はその人がキリスト者として相応しく歩んで欲しいという思いから指摘することであって、警察のような取締をすることではない。ガラテヤ6:1にあるように、「もし誰かがなにかの過ちに陥っていることがわかったら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」他人を指摘する前に自分自身を十分に吟味して、どのような動機で指摘しているかをよく考える必要がある。もしこの時点で聞き入れたらプロセスはここで終わりです。その先へ行く必要はないし、他の人に伝える必要もない。

次に、事柄が立証されるように二人か三人で話す。ここも二人か三人で責め立てるのではなく、双方の意見を中立な立場で聞けるように第三者に参加してもらい、一対一ではできない話し合いを実施する。ここでも解決できない場合、やっと教会に言うことになる。つまり、罪が発覚した時点で教会戒規にかけるのではなく、一対一、二人か三人での話し合いを経て、教会に判断を委ねるようになる。

教会との話し合いの結果、罪の悔い改めが見られないなら「異邦人か取税人のように扱う」ことになっている。神の民ではない異邦人として、世の中で平気に罪を犯している取税人のように扱うということ。つまり、教会としてはこの人はキリスト者とは呼べなくなってしまった、ということである。「キリスト者だとは認めているが戒規の下にある」、というのはこの箇所を見る限りありえない状態である。ただし、キリスト者と認めない、と宣言した時点でこの人は聖餐を控えるべきだろう。

パウロが語る教会戒規

あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

1コリント5:4〜5

この箇所では、イエスが教えたような段階的な扱いはなく、すぐに「サタンに引き渡し」ている。何故扱いが違うのか?一部の注解書では、この人はそれほど大きな罪を犯したから、と解釈している。しかしその解釈だと、どのような罪が教会戒規に該当するかの線引きを必要が出来てしまいます。離婚をしたら戒規ないのか?DVを受けている家庭はどうなのか?礼拝に来なかったら戒規なのか?信徒になりたての人で躓いた場合はどうだろう?長年教会に行っている人と同じものさしで裁くべきなのか?

一度コリントに戻ろう。1節で書かれている人はたしかに「異邦人の間にもないほど淫らな行い」としていた。しかし、ポイントはここではない。11節には「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者・・・がいたなら、そのような者と付き合っていけない、一緒に食事をしてもいけない」と書かれている。これは「淫らな行為をした人」と書かれているのではなく、「淫らな者」と書かれている。つまり、このようなことを常習的に行っていて、「淫ら」という言葉がこの人を表すまでになってしまっている。これにとどめを刺すかのように6:9〜10に「思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者・・・はみな、神の国を相続することができません。」常習的に罪を犯し、これを悔い改めることをしない人はキリスト者とは言えない。キリスト者なら罪を悔い改めるが、この人はそれをしようとしていない。なのでコリント教会は、この人をキリスト者と認められなくなってしまった。結果的に戒規に至ったということになる。

戒規と配餐停止

ここまでで分かったのは、戒規の対象は教会がキリスト者としてみなすことが出来なくなった人である。またこれを確認するための段階があり、安易に戒規に踏み切るべきではないことも確認できた。では、戒規を受けている人は聖餐をとることができるのか?

聖餐は「キリストの血にあずかること・・・からだにあずかること」で、(1コリント10:16)ここでの「あずかる」は「交わる」(コイノニア)という意味である。キリストと交わることができるのはキリスト者だけなので、戒規を受けている人はキリスト者ではない(キリストの交わりがない)ので聖餐をとることはできないことになる。

しかし、戒規を受けている人でもキリスト者として扱っている教会は何故そうしているのだろう?また、この場合配餐停止はありえるのだろうか?どのような背景でこの制度ができているのだろうか?

一つの可能性は改革派信仰のルーツであるカトリック教会の教えを確認すると良いかもしれない。カトリック律法916にはこう記されている。

深刻な罪を犯している人は懺悔をしていなければミサへの参加や聖餐をとることは禁じられている・・・

Catholic Canon 916

また、罪を犯した者は神と和解するために「深い悲しみと罪への嫌悪感を得る」必要だと教えられている。罪が赦されるために「苦行」を行う必要があり、このために断食、祈り、献金などを行っていく。同時に神父しか罪を赦すことができないので、神父に罪を告白する必要もある。注意点としては、赦されるまでの間、この人は教会員としてみなされていること。つまり、教会員に対しての戒規として、聖餐やミサへの禁止をはじめ、悔い改めるための段取りが多くあるようだ。

改革時代ルターは、戒規などの鍵を有しているのは司教ではなく教会の会衆とそのリーダーシップであり、戒規は悔い改めを促すための働きであると強調している。また、カルヴァンは正しい神学を守るため、神の誉れのため、またキリスト者として相応しく生きるために戒規を推奨していた。戒規は罪を犯している人を正し、悔い改めに導くために行っていた。なので、カトリックが教えているような深い悲しみを体験する必要はなく、罪を悔い改めて神の赦しにすがることに焦点を当てている。戒規によって聖餐の恵みを受けられないようなことは推奨していないし、戒規を通して「苦行」と体験するようなことも見られない。

上記を踏まえて、一部のプロテスタント教会において配餐停止という制度があるが、これはカトリックの「苦行」を取り入れている事が考えられる。キリスト者として罪を犯してしまい、この罪が明るみになって教会に戒規が言い渡される。戒規の位置づけとしては悔い改めを促すものではあるかもしれないが、悔い改めを証明するために一定時間の「苦行」が強いられ、罪の悲しみを体験するために聖餐をとることが出来ない状態を強いられる。この流れは人間的に理解出来なくはないが、マタイ18と1コリント5の箇所を見る限り戒規に対しての悔い改める為にこのような「苦行」を行うことは書かれていない。1ヨハネ1:9にあるように、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

最後に、9marks.orgに記載されている教会戒規について以下のことを確認したい。

1)教会員として、他の教会員に対して責任を持つ必要があり、お互いに罪から逃れることを励まし合うべきである。2)教会(ローカルチャーチ)は戒規の下にある人に対して聖書が求めていることだけを求めるべきである。それは悔い改めのみである。3)戒規は今日では受け入れられない傾向にあるが、聖書の権威を信頼して弟子作りに励み、神を愛し、互いを愛し、聖さを求めるべきである。

https://www.9marks.org/article/two-views-on-church-discipline-protestant-vs-roman-catholic/

参考資料
Church Discipline: How the Church Protects the Name of Jesus (9Marks: Building Healthy Churches Book 1)

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