交わりって何だろう?

最近「交わり」についてこのような定義を聞いたことがある。「交わりとは、神の民が神とつながりを持つこと。それは礼拝でしか実感し体験することができない。」果たして「交わり」は神とつながりを持つことだけなのか?実感し体験するのは礼拝でしかないのか?この定義は本当に聖書が言っていることなのか?こんなことを考えてみた。

まず、聖書で「交わり」と訳されている代表的な言葉はギリシャ語の「コイノニア」である。辞書を見るとパートナーシップ、共に参加する、社交、金銭の共有、コミュニケーション、分け合う、などが挙げられている。では、聖書ではどのような使われ方をしているだろう?

キリストとの交わり

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

1ヨハネ1:3

ここでははっきりと、私達の「コイノニア」は御父また御子イエス・キリストとの「コイノニア」だと定義している。また、ヨハネ達初代教会と「コイノニア」を持つには、父なる神とイエス・キリストの「コイノニア」が不可欠である事が分かる。つまり、「コイノニア」とは神とのつながりがあり、それが前提として横のつながりがあることが見受けられる。

私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

1コリント10:16

この箇所は聖餐式でよく読まれる箇所だが、ここの「あずかる」という言葉で「コイノニア」が使われている。私達は聖餐を通して、キリストの血とからだに「コイノニア」される。英語では「参加する」とも訳されている。つまり、聖餐をとることによってキリストが罪を贖ってくださったことを肉体的に体験することができる。これは過去に起きた関係ないものではなく、現代の私達の罪も確かに赦されたことを実感できる。一般的には聖餐は礼拝の中で行われるものなので(これも諸説あるが)交わりは礼拝の中でしか体験できないと思えるかもしれない。

キリストとの交わりの結果

あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

ピリピ1:5

パウロはピリピの教会に福音を伝えることに「コイノニア」したことを感謝している。つまり、ピリピの教会は福音を伝える働きに「参加」していた。罪を赦され救われたことを喜び、礼拝を捧げるだけでなく、福音を伝えることにつながっていた。パウロはこれを「良い働き」と位置づけていて(6節)完成に向かっていくことを期待していた。完成に向かうためにパウロはこう祈っている。ピリピ教会の「愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり・・・大切なことが見分けることができ」(9〜10節)、最終的には「神の栄光と誉れが現れされ」るように(11節)。この箇所で表現されているコイノニアは、礼拝だけに留まらず福音を伝えること。また、愛が豊かになり、大切なことが見分けることができ、神の栄光と誉れが現れることである。コイノニアは神をベースに横への福音の広がりや聖化が結果として現れている。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。

2コリント6:14

「光と闇に何の『コイノニア』があるでしょう。」この「コイノニア」は直前にかかれている「関わり」という意味が込められている。また、15節の「キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう」も取り入れると、正反対のものが比較されているのが分かる。つまり、キリスト者として生きる上で、神との「コイノニア」はあり、信者同士の「コイノニア」はあるが、不信者とは「コイノニア」はない。それは不信者と交流しても意味がないという分けではなく、「コイノニア」という観点からは信者と不信者はキリストという共通点がないので「コイノニア」の関係を持つことができないということである。逆を言うと、キリストと「コイノニア」があるから結果として信者同士の「コイノニア」があることになる。

イエスから習う

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら

ピリピ2:1

当時も今も、キリスト者に反対するものはいる。そんな中、キリストは励ましと愛の慰めをくださるし、御霊の「コイノニア」と愛情とあわれみを与えてくださる。面白いことに、ここではキリストとのコイノニアではなく、御霊のコイノニアが記されている。これは何を意味しているのだろうか?シンプルに考えると、イエスは天に戻る前に聖霊を与えてくださった。聖霊の役割としてヨハネ15:26にこう記されている。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来る時、その方がわたしについて明かししてくださいます。」つまり、御霊との「コイノニア」があれば、聖霊はイエスのことを知らせてくださるので、イエスのことを深く知ることができる。

また、イエスを知る事によってイエスの生き方から学ぶことができる。キリストは神でありながら自分を低くして人となり、十字架にかかってくださった(6〜8節)。なのでイエスに習って私達は「互いに人を自分よりすぐれた者と思い」、「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧み」るべきである(3〜4節)。こうすることによって、神の民として「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つに」することができる(2節)。

御霊とのコイノニアによってキリストから学び、キリストのように生きることが促される。また全員がキリストのように生きれば教会を一致へと導くことができる。

互いとの関わり方

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

2コリント13:13

ここでも聖霊の「コイノニア」がコリントの教会とともにあることが願いとして記されている。しかし、これはどのような背景で書かれているのだろうか?コリント教会は罪をパウロに指摘され、それを受け入れる人たちと受け入れない人たちで意見が別れていた。そんな教会にパウロは、「喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」(11節)と促している。つまり、コリント教会は罪の問題と向き合い、しっかり対処していくことによって「完全」になる(改善される)ことを目指せば、「愛と平和の神があなたがたとともにいてくださいます」とパウロは言っている。

今日も聖霊の「コイノニア」がある私達は教会の問題をうやむやにせず、意見は違えど向き合って行く必要がある。努力して難しい問題を対処した結果、喜ぶことができ、完全になり、慰めを受け、思いを一つにし、平和を保つことができる。これこそが「コイノニア」の指す互いとの関わり方である。

私達の間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。

ピレモン1:6

この箇所にある信仰の「コイノニア」は、「信仰の共有」とも訳すことができる。つまり、コイノニアによってキリスト者同士で信仰を共有することができ、それによって信仰が「生き生きとしたもの」となることができる。この「生き生きとしたもの」は「私達の間でキリストのためになされている良い行い」として見える形で現れている。また、5節にあるような「聖徒たちに向けている、愛と信頼」見ることができ、結果として「聖徒たちが安心(リフレッシュ)を得」た(7節)。つまり、コイノニアによって信徒の間で信仰を共有し、愛と信頼を通して生き生きとした信仰となり、結果的に信徒たちをリフレッシュさせることになった。

初代教会からの例

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

使徒2:42

最後に、初代教会からの実践的な例を見よう。もちろん、これは一例であって教会への指示ではないが、コイノニアがどのような形で初代教会で現れていたか確認できる。まず使徒2章の背景を確認しよう。まず聖霊が使徒たちに下り、力が与えられた(2〜4節)。ペテロがイエスについて、また罪の赦しについて語った(14〜40節)。そこで42節のサマリが記されている。また続く箇所によると教会は「一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて皆に分配していた」(44〜45節)。宮に集まったり、家々でパンを裂いたりもした(46節)。また、「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」(47節)。結果として毎日救われる人が加えられ、一つになっていった。

42節の「使徒たちの教えを守り」、「パンを裂き」、「祈りをした」はわかりやすいが、「交わり(コイノニア)を持ち」はどのような意味があるのだろう?上記の他の箇所にヒントがいくつか書かれているようだ。

  1. 一切の物を共有し、必要に応じて皆に分配した。コイノニアによって信者は互いを支えあった。ただ神に向かって礼拝するだけでなく、互いのことを意識した生き方をしていた。
  2. 宮に集まり、家々でパンを裂いた。ユダヤ人が多かった初代教会は当然のことながら宮に行って神を礼拝した。同時に、家々でユダヤ教で行わないパン裂きを行い、キリストを覚えた。つまり、礼拝の場所以外のところでもコイノニアの活動がなされていた。
  3. 民全体から好意を持たれていた。神とのつながりを持ち、それをベースに互いを支えているなら、好意は持たれるはず。それは、神との関係があるから、いやいやながらの支えではなかったし、礼拝だけして互いを無視するようなこともなかったからである。この両方があってこそ初代教会はコイノニアを実践し、飛躍的な成長を遂げたのである。

まとめ

コイノニア(交わり)は神とのつながりだけなのか?礼拝でしか体験することができないものなのか?

上記の聖書箇所と解釈を見れば一目瞭然だろう。もちろん、ベースとしてはイエス・キリストが地上に来てくださり、私達の罪を十字架で贖ってくださったからこそ、私達は神とコイノニアをもつことができる。さらに、キリストが聖霊を送ることによって私達はさらに深いコイノニアを体験することができている。結果として私達は感謝のあまり礼拝を捧げることになるだろう。

しかし、コイノニアは神との関係や礼拝だけに留まらず、もっと広い範囲で適用されるものである。コイノニアは教会の成長と、キリストの愛を深めることを促す。コイノニアはキリストに習い、自分を低くして他人を優れたものと見るようにする。コイノニアは互いを意識しながら支え合い、結果的にリフレッシュをもたらす。コイノニアによって初代教会は民全体において好意を得ることが出来き、教会を成長させた。

今日の教会においても本当の意味でのコイノニアを幅広く取り入れ実施すべきである。

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