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Christian Life Special Topics

教会って何だろう?

先日、使途の働き3章からメッセージをきいた。説教の冒頭でペテロとヨハネがいつものように神殿に行き、ソロモンの回廊で野外礼拝を行ったと。また、これが新約の教会における初の野外礼拝だったという内容だった。もちろん、説教の内容とポイントはここから大きく軌道修正したのだが、冒頭のズレがずっと頭から離れなかった。そこで考えた。初代教会は神殿だけで礼拝したのか?現代の教会において教会という建物で集まるのが唯一の正しい形なのか?

歴史的に最も古い「教会」はAD232に使用されたとされている。大きな家を改修した建物で、広い会堂があり、洗礼層の部屋があった。つまり、AD200年代までは現代で考えられる「教会」という場所は存在しなかったか1930年以来発見されていない。

初めて新約聖書でイエスの弟子たちが集まるシーンは使徒1:13。ここで弟子たち「屋上の部屋」で集まって祈っていて、ペテロの教えと導きを受けた。これこそが新約初の「教会」と言える。新約の教会は「教会」という建物はなく、多くの場合それぞれの家で集っていた。1コリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン2は全て信徒が各家で集まっていることが記されている。

同時に、1コリント11:17〜34でコリントの教会が各家以外の場所で集っていることが記されている。パウロは、コリントの教会員が全員を待たずに食事をしたり、食事ができていない人たちもいた事から、聖餐を軽んじていることを叱責した。「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。」(11:22)ここでは明らかに食事をする「家」と「神の教会」(集い)を区別し、それぞれでの振る舞いが違うことも示している。

使徒2:46によると信者は心を一つにして宮に集まったことが記されているので、クリスチャンも宮で礼拝していたと思いがちだ。しかしその直後に「家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から行為を持たれていた」とある。これでは宮でこの一連の行為(礼拝)をしたのか、各家でしたのかは明確ではない。「パンを裂く」行動だけが家々で行われたとも考えにくい。おそらく、宮でも家々でもこれらの行動があったと捉えるのが自然だろう。

また、使徒5:42にあるように、「イエスがキリストであると教え、宣べ伝える」ことは宮と家々両方で行われていた。つまり、「教会」や「宮」という限られた場所でのみキリストのことが伝えられたわけではなく、家々でも伝えられていた。だからこそ新約の教会は急激に成長し、大きくなっていった。また、激しい迫害にあったときでも衰えることはなく、散り散りになった信者はそれぞれの場所でキリストを伝え、さらに拡大していった。現代においては中国でも同じような急成長が見られている。

聖書の枠を少し超えてAD168に殉教したユスティノスの証言を確認しよう。信者が「どこで集っている」という問いにユスティノスはこう答えた。「集いたいと思う場所や集うことができる場所。そもそも、全員が一つの場所で集うことができるだろうか?」それだけ信者が多く、一つの場所で集うことができなかった。またこの時代「教会」という建物はなく、公共の場所は危険なため、それぞれ集まることが可能な場所で集ったのだろう。さらにユスティノスは、「私がローマにいるときは・・・私に会いたい人は私の家まで訪れて来て、私はその人に真理を伝える」と証言した。特定の場所で集うことを強調したのではなく、真理を伝えることの重要性を主張している。

少し「教会」という言葉の意味を確認しよう。新約聖書では「エクレシア」という言葉が使われており、意味は「呼び出された者たち」や「集い、会衆」である。つまり、建物や場所でなく、人を指している。また、英語の「church」という言葉はギリシャ語の「キュリオコス」から来ている。意味は「主の者たち」。つまり、「教会」は神が呼び出した人たちであり、その呼び出された人たちが集って、自分たちは主の者だと自覚している人たちが「教会」である。ある一定の場所や建物を指しての「教会」ではない。集っていても「習慣」や「伝統」や「ルール」を重んじて生きている人たちでもない。神に選ばれ、救われたことを喜び、それを共に分かち合う人たちこそが「教会」である。

いくら「教会」の建物が立派でも、それはいとも簡単にイエスの言っていた「白く塗った墓」のようになりかねない(マタイ23:27)。建物は非常に立派でとても神聖な場所に見えるが、中身は死んでいる。建物の素晴らしさはその中にいる人達の信仰と何の関係もない。神は「エクレシア」とどこでも合うことができる。「教会」という建物は体を一時的に格納する場所であって、礼拝の一部ではない。宗教は実に、からっぽの神学を隠すために派手な建造物を建てるのを最も好む傾向にある。

結論として、聖書(特に新約聖書)は「エクレシア」に集う場所を強制はしていない。「宮」であっても「教会」であっても「家」であっても、神が呼び出した者たちが集う場所が本当の教会である。

最後に、ジョン・パイパーが教会について語ったことを確認し、心に刻みたいと思う。「私達は各信者が決断した集う方法を批判することを躊躇するべきである。神は、『教会』という建物がある時とない時で壮大なリバイバルや教会の成長を起こしている。神はそのように制限される方ではない。『教会』という建物や場所が神の御国を広めるための鍵だという人たちは、神を箱に入れて冒涜している。」

参考資料