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外見上のクリスチャンと本物のクリスチャンの2種類がいますか?

ローマ2:28~29

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に離れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

見た目だけのクリスチャンに会ったことはありませんか?毎週教会に行って、ちゃんと献金して、教会で奉仕しています。一見堅実なクリスチャンに見えますよね?でも、教会から一歩出れば人が変わったようです。人が間違えを犯したら赦しません。会社では新人に強く当たります。家族と過ごす時間はほとんどなく、仕事や自分の趣味にだけに没頭します。果たして、これは本物の「クリスチャン」でしょうか?

今日の聖書箇所では、見せかけのクリスチャンと、本物のクリスチャンを見分けます。

28説 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼は割礼なのではありません。」

ユダヤ人は旧約聖書時代から「神の民」と呼ばれてきました。神がイスラエルの父にあたるアブラハムを選び出し、彼の「子孫をおびたたくふやし・・・幾つかの国民とする」(創世記17:8)と約束しました。アブラハムが「滞在している地、すなわちカナンの全土を・・・所有として与える」ことも約束しました。その約束と引き換えに、神の民は割礼を受けるように命じられました。「割礼」とは、男子の性器の包皮の一部を切断することですが、それよりも深い意味が込められています。ヘブライ語では「ムール」という言葉が使われていて、「切り捨てる」や「心をあらわにする」という意味が込められています。つまり、「割礼」行うのは、「神と自分を遮る物を切り捨て、心を神に捧げる」ということです。

つまり、神は私たちにこんな事を要求しています。

申命記30:6「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

私たちは、罪を告白してイエスを主とした時点で救われます。イエスを主とするということは、神と自分を遮る物を無くしたいという心があるということです。今日あなたは、心を神に捧げきれていますか?心配事があっても神に委ねられていますか?神と自分を遮る物を切り捨て、心を神に捧げましょう。

ローマの時代では、割礼を受けていないと「神の民」でないと言う人がいました。それは、教会の中でも同じでした。クリスチャンであれば、割礼を受けるべき。また、「神の民」に与えられた「律法」も守るべきだという人がいました。ですが、これを主張していたユダヤ人は割礼と律法の本来の意味を忘れていました。

21〜23説 「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」

律法だけをを忠実に守ろうとした結果、他人の目だけを気にするようになりました。祈る時は大勢の人がいる所で大声でしました。大金の捧げものを、大勢の人が見られる場所で行いました。他人が律法に反しているのを細かく追求し、律法を守るように促しました。ですが、イエスはこの人たちの事をこう言いました:「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」と(マタイ6:2)。

私たちは何故良い行いをするのでしょうか?同僚に認められたいから?それとも、自分のプライドを貫き通すため?クリスチャンが良い行いをするのは、神を愛する生き方をするためです。イエス・キリストを主としているから、彼の言う「隣人を自分のように愛せよ」を守るのです。一度吟味してみてはいかがでしょう?

29説 「かえって人目に離れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

本当のユダヤ人(神の民)は、人から認められようとしない神の民です。律法を文字通り守るだけではなく、神を愛する表れとして隣人を自分のように愛する人たちです。この人たちは、聖霊によってイエス・キリストの信仰に導かれます。その信仰によって罪を悔い改め、イエスを主と認めます。結果、人から誉れを求めるのではなく、神に感謝を表すために良い行いをします。見返りをもとめず、「主の教えを喜びとし」(詩篇1:2)、「みこころを行うことを喜びとします」(詩篇40:8)。つまり、本当のクリスチャンは神を求めることで喜びを得ます。この世が定義する喜び(社会的地位、お金、物)ではなく、神を求めること自体が喜びなのです。

私たちも、クリスチャンだと言いながら、本当に神を愛し、隣人を愛しているとは限りません。教会に毎週行っていても、ただ人に認められるために忙しくしているだけかも知れません。形ばかりを気にして、心が神に向いていないかも知れません。

「イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」 2ペテロ2:1

私たちはにせ教師ですか?そうならば、心の割礼が必要です。

まだクリスチャンでない方は、今日こそイエス・キリストを主としませんか?人の目を気にせず、神だけを愛し求めるのは幸いなことです。

すでにクリスチャンである方は、クリスチャンとしての振る舞いを日々吟味し、本当に神に感謝する生き方をしているか考えましょう。