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福音を伝えることに興味がありますか?

ローマ書1:16~17

16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が掲示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

ローマ書は、新約聖書を多く手がけたパウロという使徒がローマにある教会に当てた手紙です。ローマにある教会には多くのユダヤ人が所属しておりましたが、そうでない人も多くいました。なので、律法にこだわるユダヤ人と、新しく信仰を持った人たちの間に葛藤がありました。そんな人たちに、ローマ書は信仰のあり方をはっきりと示しました。ローマ書の中心的テーマはキリストの福音で、罪人がどのように神に義と認められるかを示しています。

では、キリストの福音とは何でしょう?

1:2~4説「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

イエス・キリストは旧約聖書の時代から約束されていた救世主です。イエスは神でありながら人として生まれ、罪のない人生を生きました。そして、人類全ての罪を背負って十字架につけられ、罪の代価を支払って下さいました。イエスは死から復活して、今も私たちと神の間を取り持ってくださいます。これが福音です。私たちには生まれ持った罪があり、その罪に対してどうすることもできません。私たちが何かをした分けでもないのに、イエスは私たちを救って下さいました。これが恵みです。

では、この福音は誰に、何をしてくれるのでしょう?

16説「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる」

ローマの人たちに最も重要なメッセージは、「ユダヤ人をはじめギリシャ人にも」福音が与えられたことです。長い間、律法を守ってきて割礼を受けたユダヤ人が、救いに値されると思われていました。そうでない人(ギリシャ人)はユダヤ人にならない限り救われることは無いと思われていました。ですが、パウロは「信じるすべての人」と語っています。信じるすべての人に救いを得させます。これを具体的に記した箇所が:

ローマ10:10「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

あなたは心に信じて、口で告白しましたか?それだけで救われるのです。

福音は、私たちに救いをもたらす以外に神の義を与えてくださいます。

17説「福音のうちには神の義が掲示されていて」

神の義とは何でしょう?

テトス2:11~13「すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

私たちは、罪を赦されて救いを与えられました。その感謝の表れとして、私たちは「不敬虔とこの世の欲とを捨て…慎み深く、正しく、敬虔に生活」するように勧められています。ですが、私たちは救われていてもまだ罪があります。「世の欲」を捨てきることはできません。そんな時、誰が私たちに救いを「さとし」て信仰を与えたかを考えましょう。それは聖霊です。聖霊が私たちを救いに導き、今なお私たちを清めて「聖化」してくださいます。なので、日ごろから神と時間を過ごし、聖書と祈りを通して聖霊で満たされる機会を作りましょう。そうすれば、「世の欲」に振り回されることなく、神に感謝する日々を過ごすことができるでしょう。そして、感謝の表れとして「慎み深く、正しく、敬虔に生活」することができます。

先ほど、聖霊が救いの信仰を与えると述べましたが、神の義のもう一つの役割は、私たちを信仰に進ませることです。

17説「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

では、「信仰に進む」とはどういう意味でしょう?

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

私たちは救われる前、罪の奴隷でした。ですが、キリストが私たちを購って(買い取って)下さったおかげで、私たちは罪から解放されました。それと同時に、キリストのうちに入れられたのです。罪の為に生きるのではなく、キリストの為に生きるのです。何をするにも、キリストが願うことを願い、キリストがしてほしいことをします。これが「信仰に進む」ということです。私たちは信仰に進んでいるでしょうか?もう一度キリストのうちに入れられたことを覚え、どう生きればキリストが喜ばれるかを考えてみましょう。

最後に、16説の冒頭を確認したいと思います。

16説「私は福音を恥とは思いません」

私たちにとって、何故福音は恥なのでしょうか?自分は違うと思われたくないから?拒否されるのが怖いから?「心に信じて・・・口で告白して救われる」。このシンプルな事実が福音です。「信じるすべての人にとって、救いを得させ」ます。このために、イエスは十字架にて代価を支払って下さり、聖霊は信仰を与えて下さいます。この救いを通して「神の義」と「信仰に進む」ことの喜びを、パウロは体験していたのです。私たちはどうでしょう?救いを確信していますか?「神の義」を「信仰に進む」ことによって体験できていますか?ならば福音を恥とせず、その素晴らしさを述べ伝えましょう。