律法を守るにはどうすればよいか

ヤコブ2:8~11

8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法をまもるなら、あなたがたの行いはりっぱです。
9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
11 なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫してなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

律法は守れない

10説 律法は元々神がイスラエルの民に与えたもので、神の民としての生き方を記した規準でした。律法に反すると厳しい罰が与えられ、陣営の外に追い出されたり、さらには殺される可能性さえもありました。このためイスラエルは罪のためのいけにえを常に捧げる必要がありました。現代ではイエスが罪をあがなってくださったため、私たちはいけにえを捧げる必要はなくなりました。ですが、律法は今も私たちに神の民として生きる規範として残されています。しかし、罪がある私たちには律法は全て守ることは非常に難しいです。

9説 例題として、えこひいきが記されています。私たちはどうしても、仲良くしている人たちをえこひいきしてしまいます。街中で見かけるホームレスや、教会に来た新しい人たちにはどうしても声をかけにくく、無視する場合が多いでしょう。これさえも律法を守っていないことになります。

11節 さらに、えこひいきやうそは姦淫と殺しと同じぐらいの罪として扱われています。つまり、うそをつく私たちは姦淫や殺しをしているのと同じことになります。神の目から見ると、罪は罪であり、律法は一点でもつまづけば守っていないということになるのです。

義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。全ての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。

ローマ3:10~12

私たちは罪びとであることを覚え、神の恵みなしでは義とみなされないことを常に覚えましょう。

 

最高の律法とは

8節 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」これは元々イエスがマタイ7章で律法学者たちに向けた言葉でした。律法を熱心に探求し続けた結果、律法学者は他人の罪を指差すようになり、律法の本当の意味を見失っていました。そこでイエスは律法をこのようにまとめてました:「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」他人の罪を指摘するのではなく、自分たちの罪を覚え、他人に対して恵みを持って接することを進めたのです。恵みを持って接するには自分たちをもその恵みを経験することが必要です。マタイ22章でイエスは律法でもっとも大切な戒めをこう言っています:「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」まず私たちは心と思いと知力で神を愛することが必要です。そうすれば、神を求め、神の求めるものを求めるようになります。それが自分たちにとって大きな恵となります。そして、その恵をもって隣人を愛することができるようになります。神を愛し求めましょう。そうすれば神を愛する生き方として隣人を愛するようになります。

 

律法を守るにはどうすればよいか

第一段落で申し上げましたが、私たちは罪人であるがゆえに、律法を完全に守ることはできません。ですが、第二段落で申し上げたとおり、心と思いと知力で神を愛する必要があり、さらには他人を自分のように愛する必要があります。律法を守れないならばどうやってこの二つの戒めを守ることができるでしょうか?

 

1ヨハネ2:1~2に答えがあります。

私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかがつみを犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がいます。儀なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のためのーー私たちの罪だけでなく、世全体のためのーーなだめの供え物です。

1ヨハネ2:1~2

つまり、イエスが私たちの罪のために犠牲になってくださった結果、父なる神はその犠牲により私たちを「儀」と認めてくださっているのです。なので、自分たちでは律法は守れないけど、イエスの犠牲にすがることによって、私たちは神を愛することができ、良い行いをすることができるのです。
「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」イエスのこの言葉を覚え、神を愛する生き方としてこの最高の律法を職場や家庭で守っていきましょう。