イエスはただの宗教的な教師?

イエスはただの宗教的な教師でしょうか?確かに、マルコ4章の前半では、イエスは民衆に神の御国の話をしていました。当時の人々には「神の御国」というのはイスラエルのことだと理解していたので、イエスの話している「神の御国」のことは完全に理解できていませんでした。それでもイエスは民衆が分かるようにたとえ話だけを使って語ったと33節に書いてあります。こういう訳で、民衆はイエスのことをエリヤとヨハネに続く「大預言者」、または「偉大な宗教的な教師」とたたえていました。

ですが34節では、イエスは弟子たちといる時に全てのことを話したと書いてあります。それは民衆を無視していたのではなく、12人という少人数の弟子と深い交わりを持ち、言葉や知識のみならず行動によって彼らに全てを教えようとしたからです。民衆はすでに理解不足でしたが、せめて弟子たちには正しい事を理解してもらおうと思っていたのです。そこで35~36節で、イエスは民衆を置いて弟子たちとともに船に乗り込みました。このようにイエスはすでに弟子たちの事を思い、特別な時間を彼らと過ごすことに心がけていました。私たちはどうでしょうか?毎日の生活の中でイエスと特別な時間を過ごす事を心がけているでしょうか?もしそうでなければ、イエスの心を是非とも分かってください。彼は全てのことをあなた方に教えたいのですが、私たちはそれに答えて歩み寄る必要があります。

37~38節はストーリーのクライマックスです。嵐がきて、大きな波がイエスと弟子たちを襲います。実はガリラヤ池は嵐が突然起きることで有名で、陸地を好むイスラエル人にとっては池や海は恐れの対象でした。そんな中、同じイスラエル人であるイエスは静かに眠っていました。これに弟子たちはたまらず、「我々が溺れてもいいのですか?」ここで一つ分かる事は、弟子たちは少なくともイエスなら何とかしてくれると信じていた事です。これまで数々の人を癒し、奇跡を起こしてきたイエスならばこの状況を何とかしてくれる。ただ、弟子たちはイエス自身を信じていた訳でなく、彼の成す業を信じていました。これだと民衆と同じで、ただ奇跡を信じている浅い信仰でしかありません。イエス自身を信じるということは、周りの嵐や状況がどうあれ、ただひたすらイエスを信じぬくという事です。ですからイエスは40節で弟子たちに、「何故恐れているのですか?何故信仰が無いのですか?」と聞いたのです。私たちはどうでしょう?イエス自身を信じていますか?それとも、イエスの成す奇跡だけを信じていますか?ヨハネ20:30~31にはこう書かれています。「まだほかの多くのしるし(奇跡)をも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたがしんじるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」しるしや奇跡を信じるのではなく、創造主である神、イエス自身を信じましょう。そうすればいのちが与えられます!

40節でイエスは弟子たちの信仰の無さを問いましたが、叱ってはいません。叱りの対象は嵐の方でした。このように、神は私たちの問題の原因を常にご存じです。時に原因は私たち自身にありますが、時には私たちの分からない所、または私たちのコントロール外にあります。そんな私たちは神に頼るしか無いと実感します。神はこの世のすべてを治めていて、私たちの信仰さえも神に支えられ、導かれています。ですから、私たちがどうにか罪を克服するとか、たくさん祈れば癒されるとか、良い事をたくさんすれば神が報いを与えてくださる。こういう考えはすべて自分を基準にしていて、神の働きを無視しています。弟子たちは自分たちでは嵐の中で無力だと感じ、イエスに委ねるしかありませんでした。その上でイエスは自身の言葉の力強さによって「風が弱まり、すっかりおさまりました。」色々な困難のある世の中、私たちは無力です。神に委ねて生きる人生こそ本当の安らぎが与えられます。

最後に41節で弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言いました。この「恐れ」というのはギリシャ語で「フォベオ」という言葉で、「崇敬」(すうけい)という意味も持っています。弟子たちイエスを怖がったのではなく、あがめうやまったのです。最近神の愛についてよく語られますが、同時に神は恐れるべき存在です。正しい恐れをもって神と接する必要があります。

イエスは多くの民衆に神の御国という偉大な神の計画を教え、様々な奇跡の技を成しました。これだけでなく、イエスは自分に対して絶対の信頼を置くことを要求し、100%委ねることを教えました。最後に、自然さえもイエスの言うことを聞き、これに対して弟子たちは崇敬するようになりました。イエスはただの宗教的な教師ですか?それ以上です。過去にも神の使いである預言者は現れましたが、自分に全てを委ねるように教え、自身が崇敬された方はいませんでした。イエスは神の子であり、崇敬されるのにふさわしい方です。神の御国の事を教えられるのも、奇跡を起こせることも、一声で自然を支配するのも、神の子であるからできることです。私たちはこの方に100%委ねる事によって、本当の喜びに満ちた人生を歩むことができます。